●全体主義と民主主義は敵対関係にある?
最近、全体主義と民主主義の本質をえぐりだす二冊の書籍に出遭った。
京都産業大学名誉教授ロマノ・ヴルピッタの『ムッソリーニ/イタリア人の物語』と『民主主義の内なる敵(ツヴェタン・トドロフ)』である。
精読する根気がないので、ざっと拾い読みしただけだが、大方、エッセンスは読みとれた。
これまで、全体主義と民主主義は、敵対的な関係にあると思われてきた。
ところが、この二冊は、そんな認識に変更を迫ってくる。
ロマノによると、ムッソリーニは、全体主義をとおして国民の利益をえようとしたすぐれた政治家だったという。チャーチルやルーズベルト、レーニンや反全体主義のガンジーまでが、その政治哲学に深く感服したほか、ヒトラーも死ぬまでムッソリーニを尊敬してやまなかった。
ムッソリーニの全体主義が、いまもなお、イタリアで高い評価をえているのも、かれの全体主義が国家や国民の利益を見すえたすぐれた思想だったからであろう。
国家と国民は、国家が利益を獲得すれば国民が恩恵をうけ、国民がゆたかになれば国家も富むという相関関係にある。すぐれた指導者の下にあって全体の利益が個に還元される全体主義は、個々が勝手に利をむさぼる民主主義よりもゆたかだった可能性が高い。
一方、トドロフは、こう警鐘を鳴らした。民主主義が、進歩と自由、人民の暴走によって、悪しき全体主義へ傾いてゆくと、自由が権利、進歩が、たとえ個人のものであっても、大衆迎合化(ポピュリズム)に煽られて、全体主義へつきすすんでゆくはずである。まして、大衆は、マスメディアを味方につけているだけに、その傾向がはなはだ著しい。
全体主義をつきつめると、民主主義的になって、完全な民主主義をもとめると、全体主義に近づいてゆく。
これは、逆説だが、中国やロシアが民主主義を平然と口にする一方、新自由主義に走ったアメリカが全体主義の色合いを濃くしている現実をみれば、その逆説が、目下、着々とすすんでいるとわかる。
●二元論で解消された「個と全体の矛盾」
政治には「個と全体は矛盾する」という重大なテーゼ(命題)がある。
国民が民主主義に、国家が全体主義に立つと、国民と国家は、抗争の構図にまきこまれるが、両者の相克には、折り合いのメドが立たない。
これまで、多くの哲学者や政治家らが「個と全体の矛盾」という難問に取り組んできた。だが、どこからも妙案やよい知恵はでてこなかった。個と全体の矛盾は、だれにも解くことができない難問として、人類につきつけられたままなのである。
一つだけ例外があった。日本の天皇である。古来、日本の政治体制は権力の外に権威を立てる二元論によって、数千年にわたって安定的にまもられてきた。
国体と政体、軍事と文化、伝統と進歩など、本来、矛盾するものが二元論によって並び立ち、個と全体の矛盾が解消されたばかりか、相補的作用によって一元論よりも大きな果実を獲得してきた。
ハンチントン(『文明の衝突』)が、日本文明を世界八大文明の一つにくわえた理由の一つに古墳時代の独自の国家形成がある。君が臣を任じて、臣が民を治める「君臣共治」や、君が民の立場にたつ「君民一体」が日本に固有の文化文明をはぐくんできたというのである。
西洋の一元論と、日本の二元論や多元論の背景に、宗教のちがいがあるのはいうまでもない。
西洋の宗教は、ユダヤ教とキリスト教、イスラム教とも、唯一神ヤハウェの下にある一神教で、異神や異教を立てると、死をもって贖わなければならない重罪である。
一方、日本の宗教は、万物に精霊が宿るアニミズムや自然崇拝、神話にもとづく多神教で、神仏習合では、天照大神(日輪)が仏教の最高神、大日如来に見立てられた。
日本で、個と全体の矛盾が表面化しなかったのは、宗教まで諸仏(如来)が太陽(日輪)の下におかれたおおらかな二元論だったからである。
●自然は神から人間にあたえられた糧という傲慢
西洋の一元論に拍車をかけたのがキリスト教の人間中心℃蜍`だった。
人間主義は、ヒューマニズムで、人文思想である。
一方、人間中心主義は、宗教観念で、自然や生き物は、神が人間ために用意してくれた糧なので、いくら破壊しても殺してもゆるされるというおそろしい思想である。
これが西洋人の肉食の思想≠ナ、旧約聖書(「創世記」)には「海の魚、空の鳥、地を這う生き物を奪いつくせ」とある。古代(7世紀の天武天皇)から屠殺と肉食が禁じられていた自然崇拝の日本と西洋では、精神風土が根本的に異なるのである。
ところが、明治以降、日本にユダヤ・キリスト教文明が入ってくると、肉食とともに、他の動物を殺し、自然を徹底的に支配する人間中心主義がはびこりだした。
ヨーロッパやアメリカで森林が消滅したのは、人間中心主義のせいだったが、日本でも、明治以降、自然崇拝が忘れられて鎮守の森が消え、工場排水で国中の河川がずたずたになった。
人間中心主義は、神と信仰契約をむすぶ代償として神から人間に授与された地上の最高支配者の位である。
ところが、非キリスト教の日本には、絶対神信仰や神との契約という西洋の宗教感覚が存在しない。
したがって、日本の人間中心主義は、神への信仰なくして、食肉や自然破壊という神の恩恵をうける一方という身勝手なものになった。西洋化が、日本でグロテスクなものになっていったのは、キリスト教文明の恩恵をうけながら、唯一神にたいする畏れ(祈りやタブー)が存在しなかったからである。
そして、人間中心主義を、憲法で保障された基本的人権や自由のようにうけとめて、人間はこの世の崇高な支配者だ、自由には際限がない(リバタリアニズム)と考えるひとまでがあらわれた。
●プロテスタンティズムからうまれた革命思想
専制政治も民主主義も一元論だが、根底に、一神教のキリスト教がある。
絶対王権をささえたのは「王権神授説」だったが、その専制政治を破壊した民主主義の土台も、プロテスタンティズムだった。
全知全能の神という絶対的存在の前では、身分や階級、歴史や伝統にはなんの価値もない。価値があるのは、神と信仰契約をむすぶ個人だけで、その個人が民主主義の精神となった。
西洋の思想は、すべて、キリスト教の焼き直しだったのである。
近代民主主義の出発点となったのが英国のピューリタン革命だった。絶対王権をふるう国王チャールズ1世に反発して、内乱がおきると、クロムウェルが率いた独立派が勝利をおさめて、ついに、チャールズ1世を処刑してしまう。
フランス革命では、ブルボン朝のルイ16世と妃のマリー・アントワネットが共に処刑されたが、ギロチンで首を落された貴族が1万6594人、その他の方法で殺された旧体制の人々は50〜100万人にものぼる。
絶対王政や専制政治、宗教戦争や革命では、大量殺人がおこなわれる。一元論においては、神と悪魔のたたかいになるからで「十字軍の遠征」から植民地侵略にいたるまで延々と虐殺がくり返されてきたのは、一元論が、神と悪魔が永遠に否定しあう殺戮の論理≠セったからである。
ところが、日本には、キリスト教的な価値観が存在しない。
神との契約という個人主義や人権思想、民主主義の土壌も用意されていない。
したがって、西洋の概念が、内実のない上っ面のことばとして入ってくる。
西洋の概念は、すべて、啓蒙主義や宗教改革、市民革命の産物である。
日本の左翼はぺらぺらと言論の自由などをのべたてるが、西洋人の自由への渇望は、血と骨、遺伝子に刻みこまれた苦しみの記憶、牢獄と多くの屍に埋もれた千年の歴史をひきずっている。
日本人は、革命を知らない。したがって、自由や平等、進歩や人権といった革命の叫びやスローガンが、辞典の文字以上の意味をもって迫ってくることがない。
全体主義と民主主義、そして、天皇は、それぞれ歴史背景が異なっている。
この三つの概念が拠って立つ宗教や歴史、文化を体験的に理解しているのでなければ、全体主義も民主主義、そして、天皇も、これを語ることはできない。
全体主義と民主主義、そして、天皇が調和した国家像をいかに構築するか。
それが、現在、日本人にとってもっとも大きな問題になっているのである。