2023年01月30日

「全体主義」と「民主主義」の相克と調和4

 ●「日米地位協定」をめぐる反日デマゴギー
「主権なき平和国家(集英社/伊勢崎賢治・布施祐仁)」という書籍が保守層にまで広くうけいれられて、文庫本化されている。
 キャッチフレーズに「地位協定の国際比較からみる日本の姿」とあるので、本格的な読み物と思いきや「オスプレイ墜落や米兵婦女暴行事件にたいして日本はなぜなにもできないのか!」という煽り本だった。
 デマゴギーと感情論のごった煮で、こういう宣伝文書を読まされて、日本の若者は反日戦士に仕立て上げられてゆくのかと、妙に納得させられた。
 同書にこうある。「1960年の締結以来、日米地位協定を一度も改定しなかった日本の主権放棄≠ヤりは、アメリカと地位協定をむすんでいる他の国々と比較しても際立っている」
 こうとものべる。「国内の一部領空には日本の航空機が通過できない空域(横田)があるなど、戦後から現在までアメリカの占領状態がつづいている。日本国憲法の上に日米地位協定が、国会の上に日米合同委員会があるような、アメリカに依存しきった主権なき平和を本当に平和と呼べるのか?」
 ウソとゴマカシも、理屈をつらねてゆくと、真実に思えてくるのがことばのこわさで、この手のアジ演説≠ェ左翼メディアに乗ってひろがって世論が形成されてゆく。
 その左翼メディアのスターの一人、寺島実郎はこうのべる。「日本はアメリカの属国で、アメリカも日本を保護領と見ている」(『問いかけとしての戦後日本と日米同盟』/岩波書店)。こうとものべる。「自国の空に他国の空域(横田)があるなど国際社会の常識ではありえない」「アメリカは占領を終えたら出ていく約束だった」「米軍基地の縮小、撤退が主権回復へのみち」「中国との対立は危険」「地位協定を改定せずに主権をとりもどすことはできない」
 寺島の意見が正論に聞こえてくるのは、日本のマスコミ世論が、右(自由陣営=アメリカやイギリス)ではなく、左(共産陣営=中国やロシア、北朝鮮)に属しているからである。
 右にとって、国家をまもる安保が、左には、中・ロ・韓・朝にたいする好戦性としか映らない。そこで、安保法制を固めた日本を、アメリカの番犬(ポチ)」と呼んで憎悪をあからさまにする。それが反保守と反米を軸とする現在のマスコミ世論のすがたである。

 ●横田空域は主権放棄と息巻く寺島らの虚言
 寺島実郎は「自国の空に他国の空域(横田)があるなど国際社会の常識ではありえない」というが、北朝鮮と国連(韓国と米国)軍および米軍を駐在させている日本は、現在、戦争状態(現在は休戦)にあって、事実、北朝鮮は日本海にさかんにミサイルを撃ちこんでいる。
 朝鮮半島が、歴史上、日本の安全保障の要衝だったことは、白村江の戦から蒙古襲来、日露戦争までの歴史が教えるとおりで、朝鮮半島の動乱は、つねに、日本の危機だった。
 横田基地は、日本防衛の要で、横田基地から朝鮮半島や中国大陸にむかう戦闘機の航路を開けておくのは、日本防衛のためであって、アメリカが日本の空域を侵しているわけではない。
 アメリカが横田空域を放棄すれば、日本の制空権は中国空軍におびやかされる。中国軍の尖閣列島や台湾への侵攻の最大のネックが制空権だが、アメリカが横田や岩国、那覇の空軍基地を失ったら、中国は空母打撃群(空母+戦闘機)を編成して、堂々と日本海や尖閣・沖縄周辺へのりだしてくるだろう。
 それが、寺島のいう「中国との対立は危険」ということで、かれらは中国を友好国と見て、日本の同盟国であるアメリカを敵視する。
 横田基地は、日本空域を侵す空の壁≠ナはない。旅客機の巡航高度は10000〜12500mだが、横田基地の空域高度は7000mまでなので障害にならない。横田空域をとばないのは、必要がないからで、千歳〜羽田航路は横田空域をとおらず、千歳〜那覇航路にいたっては海上ルートである。
 羽田発の旅客機が房総沖の海上で旋回して高度を稼ぐ航法をとる理由は二つあって、一つは、富士山の乱気流を避けるためで、二つめは、市街地の上空を旋回すると騒音問題が生じるからで、安全性にも問題がある。
 横田空域を使用する場合、米当局へ申し入れが必要だが、有視界の飛行なら自由に航行できる。事実、横田空域の立川飛行場から、連日、八丈島などへの定期便(有視界飛行)が飛んでいる。事前に申し入れれば、ジェット旅客機も横田空域を使用できるが、高度7000m以内を運行する大型旅客機など日本には存在しない。

 ●NATO地位協定は平時法、日米地位協定は戦時法
 アメリカとNATOの地位協定には、平時法と戦時法の区別があって、日本の報道が引用してきたのは平時法である。ところが、日本の地位協定は、戦時法なのでNATOよりも米軍優先になる。
 国家が自国内に他国の軍隊を受け入れる場合、NATOや日米、米韓も同様、一定のルールのもとでとりきめがおこなわれる。したがって、各国間で差異が生じることも不平等になることもありえない。日米地位協定も他国の条約を例にふまえて作成されているので、国際的慣行からみても均衡がとれている。
 軍隊を派遣する国とうけいれる国の主権がぶつかる場合は、うけいれる国が譲歩するのが慣例で、うけいれる国が、駐留する国の主権をみとめないということになれば、そもそも、駐留の根拠自体が失われる。
 アメリカ軍は、アメリカの国家主権を背負って日本に駐留している。日本の主権のもとで、軍事行動にあたっているわけではない。逮捕権や裁判権は、主権の問題なので、日本国内であっても、アメリカは、アメリカの法律をもって処分する。
 アメリカ兵が罪を犯して、アメリカ軍施設のなかに逃げこんで罪を免れたという話はつくり話で、アメリカは、アメリカの法のもとで、罪を犯したアメリカ兵を罰する。
 自衛隊が駐留しているジブチやクウェートでも、事情は同じで、自衛隊員は殺人を犯してもジブチやクウェートの法では裁かれない。逮捕して裁くのは、日本の警察や司法で、軍人には、現地の法がおよばないのである。
 逮捕や裁判、刑罰は国家主権で、有罪になると死刑(刑法第81条)になる外患誘致罪(外国と通謀して日本国に武力を行使させる)では、身柄が外国にあっても免罪にはならない。

 ●日本に有利なジブチとクウェートの対日地位協定
 ソマリア沖の海賊退治のために日本の自衛隊をうけいれているジブチで調印された日本ジブチ地位協定(2009年)は、自衛隊の過失犯が無罪になるほか、自衛隊基地が、事実上、ジブチ政府の治外法権とされるなど日本に圧倒的な有利な協定だが、これを問題にしているのは、一部の日本人だけで、ジブリでは問題になっていない。
 イラク戦争後、日本は、イラクの国家復興支援活動として、イラクに陸上自衛隊を、クウェートに航空自衛隊を派遣している。その際にむすばれた「日本クウェート地位協定」は、自衛隊の公務中の犯罪がクウェートの刑法から免除されるという不平等条約だったが、ジブチ地位協定と同様、問題になることはなかった。
 外国から派遣された兵士は、じぶんの国の法に縛られているので、駐留地の法で裁くことはできない。銃をもってたたかう兵士は、自国の主権を背負っているからで、これを「属人主義」と呼ぶ。一方、民間人は、生活している国の法令に保護されているので、罪を犯せば、その国の法によって裁かれる。これが「属地主義」で、軍人と民間では、画然たるちがいがあるのである。
 罪を犯した公務中の米兵、あるいは米当局が身柄をおさえた被疑者を日本の法律で裁けというのは「属地主義」だが、ほとんどの先進国は「属人主義」をとっている。他国の「属人主義」をさして、主権を侵されたと騒ぐのは、国際常識を知らない錯誤か被害妄想である。全国で相次いだ強盗事件で、フィリピン当局は、主犯と見られる人物を入国管理局の収容施設に拘束して、日本当局に引き渡した。それが「属人主義」というもので、フィリピンが「属地主義」をとって、この犯人を野放しにしたら日本と「犯罪人引渡条約」をむすんでいないフィリピンは、日本人犯罪者の巣窟になってしまいかねない。
 次回は安保条約と地位協定の関連をもうすこしつっこんで考えよう。
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2023年01月16日

「全体主義」と「民主主義」の相克と調和3

 ●集団主義というすぐれた気質をもつ日本人
「民主主義を正しく機能させるには、死者にも投票権をあたえなければならない(『正統とは何か』)」といったのはチェスタトンだった。
 世界は、現在ここにあるものではなく、昔からここにあったもので、歴史の産物である。空間的な存在ではなく、時間的な存在なので、現在、生きている人々だけで物事をきめてはならないというのである。
 現在を生きる人々がおこなう意思表示が民主主義で、その意思表示に死者をくわえるのが保守思想である。そして、かつて生きていた人々がきめたことをまもるのが伝統で、詩人エリオットは「変えることはかんたんだが、伝統を相続するには相当な努力を要する」といったものである。
 かつて二階俊博(元自民党幹事長)は皇室の皇位継承問題にからめて「男女平等の現在、男系相続にこだわるのはいかがか」と発言している。
 皇室や国体、文化は、現在のみにかかる問題ではない。過去から未来へつながる普遍的な問題で、保守主義は、守旧派ではなく、普遍的なテーマが時流に押し流されるのを、身をもって防がなければならない。
 現在のみを生きる人間は、理想的な共同体や社会、国家をつくることができない。人間をうごかしているのが理性ではなく、目の前の欲望だからで、その欲望を反映させるものが自由主義や個人主義、民主主義である。
 その啓蒙主義的なイデオロギーに価値があったのは、革命のエネルギーがもえたぎっていた18世紀の市民革命の時代までである。歴史上、価値があって、現在も価値があるのは、イデオロギーではなく、調和という文化である。その文化が集団主義で、聖徳太子の「和をもって貴し(たっとし)となす(十七条憲法)」が和の心≠フ神髄として、いまもなお、日本人のなかに生きている。日本中の町が清潔で、日本人に人情があって親切、善意にあふれているのは集団主義だからで、法で規制されなくとも、身勝手やエゴイズム、わがままを自省する気質が日本人にはおのずとそなわっているのである。

 ●無軌道な自由を制限する人格や人徳、モラル
 日本人は集団主義的という反省や自己批判が根強くゆきわたっている。その反動かどうか、個性や個人性がことさらにもちあげられて、じぶんらしさなどという意味不明なことばも流通している。
『集団主義という錯覚〜日本人論の思いちがいとその由来(東京大学名誉教授高野陽太郎)』に「日本人は集団主義的という認識はつくりだされたもの」とあって、集団主義が、逆説的に、民族的な欠陥としてあつかわれているが、集団主義は、長所であって、短所や欠点ではない。
 集団主義は、他者や世間と共存する文化で、個人の利益と集団の利益を同等、あるいは、個人より集団の利益を重視する傾向をもつ。一方、個人主義は、個人の目標達成や自己実現、自己完結性を重視する文化で、集団の利益よりも個人の利益をもとめる。
 西洋人が個人主義的になったのは、神と個人が信仰契約する16世紀のプロテスタンティズム以降である。それまで、世界は神のもので、じぶんは、神のシモベでしかなかった。だが、聖書をとおして、神と信仰契約するプロテスタンティズムによって、神から見られている個人が出現して、それが個人主義の萌芽となった。
 日本に個人主義がうまれなかったのは、多神教で、信仰契約がなかったからである。天神地祇と自然・人間・社会環境(ミクロコスモス)に囲まれて一家眷属が生きてゆくのに個人性などどこからも要請されない。
 もともと、個人主義は、世界原理に反している。世界には、個人主義や自由を収容する十分なスペースがないからである。したがって、最大多数が生きてゆくには、個人主義が制限されなければならない。それが、人格や人徳、モラルで、人間の根本は、集団主義に立っている。
 集団主義が、愛や利他心、礼儀や尊敬心を土台にしているのは、いうまでもない。法や掟、同調圧力や忖度、空気(ニューマ)読みも必要で、個人主義や自由主義を野放しにして、国家がなりたつわけはないのである。
 
 ●自由も平等も、民主主義も集団主義
「他人に迷惑をかけないかぎりなにをやってもよい」と説く学者(池田清彦/早稲田大学名誉教授/フジテレビ「ホンマでっか!?TV」)もいるが、自由は個人のものではなく、他者と共存するための相互主観性の問題で、集団のものである。自由が個人のものならなにをやってもよいのはあたりまえで、集団のものだからこそ、他人に迷惑をかけないというゆるがせにできない鉄則がでてくるのである。
 自由も平等も、民主主義も基本的人権も、他者との関係を土台にしている。
 人間が人間らしく生きられるのは、集団性や関係性が成立しているかぎりにおいてで、したがって、自由は、制限されなければ、自由たりえない。
 改革や規制緩和は歓迎だが、規制には反対というヒトが多いが、法治国家の根本は、法という規制で、六法はそのためにある。規制というガードレールがなければ、自由によって自由が殺されるというパラドックスが生じるのは、子どもにもわかる理屈である。
 ところが、ルソー主義を盲信する多くの日本人は、人間は、自由になるほどシアワセになると信じてやまない。
 自然状態では「万人の万人よる戦争がおきる」といったホッブズにたいしてルソーは「人間は自由なものとして生まれたが、いたるところで鎖につながれている」と反駁した。ルソーやマルクス、フロイトがすきな日本人はルソーをうけいれたが、人間がうまれながらに自由だったのなら、うまれてすぐに立ち上がって辺りをかけまわっていたはずである。人間が単独で生きてゆけるまで十年以上かかる。それでも、自由というにはほど遠く、人間は、一生、じぶんという不自由な牢獄につながれたままなのである。

 ●新自由主義に破壊された資本主義の精神
 自由主義経済も、自由を制限しなければ、破滅へむかうことになる。
 企業形態がIT・AI関連に集中している現在、中国をふくめた世界経済の行く末を楽観することはできない。資本主義が不景気や不況、高インフレやデフォルトをこえた構造矛盾につきあたって、たちゆかなくなる可能性があるからである。企業収益がIT・AI企業に集中して、経済の空洞化と偏向がすすんでいるのである。
 資本主義は、企業による利益収奪機関ではなく、生産と消費、雇用と金融をとおして、社会全体に富がつみあげられてゆくシステムで、社会的な善≠ナある。
 日本の商道がめざしたのも、近江商人の売り手と買い手、世間の「三方良し」から江戸商道の合理性や徳や義で、代表的な人物に「堅く奢侈を禁ず。厳に倹約を心掛けよ」とした三井高利(越後屋/三井財閥)がいた。
 ところが、現在の経済は、竹中平蔵に代表される「儲かりゃいい」の新自由主義で、これが世界的に蔓延して、レーニンが『帝国主義論』でいったような侵略経済が進行しつつある。グローバル化した経済は米中の両帝国に握られていて、中国からおしつけられた巨額債務(債務のワナ)を返済できずに国家が経済破綻したスリランカのようなケースまででてきた。
 国家や国民をうるおす公器だった経済が、世界征服の道具になって、米中の毒牙がおよんでいない地域は、いまや、アフリカの一部だけになって、中国「一帯一路」の参加国も172か国(2021年)にふえた。
 経済が利益の収奪構造や他国侵略の武器になって、国民生活が疲弊しているのにくわえて、麻薬と貧困、凶悪犯罪がはびこって、多くの国々が窮地に追いこまれている。
 次回以降、旧植民地勢力などの動向見ふまえて、世界情勢を再点検してみよう。
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2023年01月04日

「全体主義」と「民主主義」の相克と調和2

 ●犯罪と麻薬、貧困がもたらす無政府状態
「世界の住みやすい国ランキング」の上位には、国土が小さく、人口が少ない先進国が多く、スイス、デンマーク、オランダ、フィンランド、オーストリアがトップ5を占めている。
 主要国では、ドイツ(8位)、アメリカ(15位)、日本(17位)、イギリス(21位)、フランス(28位)がランキング入りしているが、ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ(ブリックス5国)は30位の圏外におかれた。(NUMBEO/世界最大のデータベース)
 それどころか、中国以外、国家の機能が十分にはたらいていない無政府状態とみなされている。
 国家の仕組みや権力構造に問題があるのではない。
 国家が国家たるべき諸条件をみたしていないのである。
 現在、数十か国が内戦状態にあって、軍事衝突や反政府テロがくり返されているが、他に多くの国々も麻薬密売や武装ギャング、犯罪グループのバッコに苦しめられている。
 ブラジルやインド、フィリピンやインドネシアなどでは、一般住宅街と隣接する巨大なスラム街を根城に、犯罪集団や麻薬組織がヤミの経済圏を形成して、警察と抗争をくり広げている。
 世界の多くの国は、内乱やテロ、麻薬組織やギャングによる凶悪犯罪(殺人)の危機にさらされているばかりか、失業や貧困、スラム街(貧民窟)や難民問題をかかえて国家機能を失いかけている。
 世界には、犯罪と麻薬、貧困による無政府状態≠ニいう体制が存在していたのである。

 ●独裁国家よりも少なかった民主主義国家
 スウェーデンの独立研究機関が、世界の政治体制を4つの類型に分けた。
 ▽閉鎖型独裁/中国や北朝鮮、ミャンマーなどで、選挙における立候補の自由がない
 ▽選挙による独裁/ロシアやトルコ、インドなどで、選挙における立候補に制限がある
 ▽選挙による民主主義/ブラジルやインドネシア、モンゴルなどで、選挙における自由や権利が保障されている
 ▽自由民主主義/欧米や日本や韓国などで、普通選挙法のほか個人の権利や自由、法の下の平等、立法と裁判所による権力の制約などが約束されている
 そして、同機関は、民主主義国家の人口が23億人対55・6億人の比率で独裁国家よりも少なかったと報じて世界に大きなショックをあたえた。
 英オックスフォード大の国際統計サイト(「OWID」)も199か国を4つに分類して「自由民主主義(34か国)」と「選挙による民主主義(56か国)」の合計90か国にたいして「選挙による独裁(63か国)」と「閉鎖型独裁(46かカ国)」が合わせて109か国で、民主主義国家よりも独裁国家(権威主義的国家)な国の方の人口が多かったと報告している。
 民主主義の劣勢は、別の方面からも上がっている。米シンクタンク「ピュー・リサーチセンター」の調査(2020年)によると、民主主義34か国の国民52%が「自国における民主主義の機能の仕方に不満がある」と回答し、満足と応えたのは過半数にみたない44%にとどまっている。
 国際社会を「民主主義」と「独裁」の対比で見た場合、人口比も国民の支持も独裁側にあって、民主主義が人類最高の統治システムという結果にはなっていなかったのである。
 
 ●権威不在の民主主義と自由のない全体主義
 民主主義は、中ソの共産主義と英米の自由主義へと分かたれて、共産主義は滅びた。自由主義も、新自由主義とリバタリアニズム(自由至上主義)、修正資本主義へと移行して、普遍的な影響力を失っている。
 天安門広場に毛沢東の肖像を掲げる中国では、習近平政権がすでに3期目を迎え、プーチンのロシアは、スターリンの29年(1924〜1953年)につぐ独裁政権を維持、北朝鮮の金正恩と並んで、世界三大王朝政権を形成している。
 ルソーのいったように、国民主権は、直接民主主義から共産主義をへて、ついに独裁体制になったのである。
 アメリカも、間接民主主義の議会は無力で、公選制の大統領が大きな権力をもつ疑似独裁である。
 国民主権と民主主義は、結局、独裁者が権力を掌握するための方法論でしかなかったのである。
 民主主義が、世界中で、独裁に圧されているのは、民主主義が無力だったからである。
 中国に、反政府軍やギャング団、麻薬組織やスラム街も存在しないのは、強権で叩きつぶしてしまうからで、世界の指導者が中国や北朝鮮、ミャンマーなどの「閉鎖型独裁」あるいはロシアやトルコ、インドなどの「選挙による独裁」を志向するのは当然だった。
 どの国も、ギャング団や麻薬組織、貧困やスラム街はいらないのである。
 民主主義が無力なのは、権威が不在だからで、権威がないところでは暴力や反乱、略奪や犯罪がおおっぴらになる。
 かつて、日本が、道徳国家だったのは、天皇の権威の国だったからだった。
 
 ●第三勢力を交えて混沌とする体制問題
 独裁国家は、権威主義的国家でもあって、民主主義と権威主義は相容れない。
 民主主義国家は、権威主義を暴力革命で倒して成立した国家だからである。
 じじつ、第二次世界大戦は、権威主義(日独)と民主主義(米ソ英仏)が覇権をあらそった戦争だった。
 このとき、民主主義のルーズベルトと共産主義のスターリンが手をむすんだのは、共産主義と民主主義は、一卵性双生児だからで、共産主義や民主主義が独裁となるのは、ルソーがいったように、国民主権をあずかった為政者が主権者として全権を奮えるからである。
 全権者は、大日本帝国憲法においては、天皇だったが、戦後の日本国憲法では国民となった。多くの日本人は、日本国民に主権があるというが、日本国民全員にあたえられた権利を個人が行使することはできない。明治憲法下、主権者だった天皇は一度も主権を行使しなかった。国家にそなわっている主権を天皇陛下という個人の資格で行使できなかったのである。
 第二次大戦後、伝統(全体主義)と革命(民主主義)の思想戦が展開されたが、舞台となったのは、戦闘がおこなわれた中国や朝鮮半島、東欧やベトナムではなく、銃弾が一発もとびかうことがなかった日本だった。
 日本の左翼は、資本主義や自由主義の恩恵をむさぼる一方、ルソーやマルクスを、思想や学問の祖として奉って、反国家と反伝統、国民主権、民主主義を叫んだ。
 その結果、日本は、国をまもる気概をもった国民が10%(世界平均約70%)にみたない情けない国になってしまった。
 じじつ、世界の国々では、政治家になる理由のトップが愛国心だが、日本の場合、国家や国民ではなく、民主主義をまもるために政治家になるという。
 次回以降、第三勢力(AA会議/旧植民地)を視野に入れて、民主主義と全体主義の動向に目をむけていこう。
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