2023年01月16日

「自由主義」と「民主主義」の相克と調和3

 ●集団主義というすぐれた気質をもつ日本人
「民主主義を正しく機能させるには、死者にも投票権をあたえなければならない(『正統とは何か』)」といったのはチェスタトンだった。
 世界は、現在ここにあるものではなく、昔からここにあったもので、歴史の産物である。空間的な存在ではなく、時間的な存在なので、現在、生きている人々だけで物事をきめてはならないというのである。
 現在を生きる人々がおこなう意思表示が民主主義で、その意思表示に死者をくわえるのが保守思想である。そして、かつて生きていた人々がきめたことをまもるのが伝統で、詩人エリオットは「変えることはかんたんだが、伝統を相続するには相当な努力を要する」といったものである。
 かつて二階俊博(元自民党幹事長)は皇室の皇位継承問題にからめて「男女平等の現在、男系相続にこだわるのはいかがか」と発言している。
 皇室や国体、文化は、現在のみにかかる問題ではない。過去から未来へつながる普遍的な問題で、保守主義は、守旧派ではなく、普遍的なテーマが時流に押し流されるのを、身をもって防がなければならない。
 現在のみを生きる人間は、理想的な共同体や社会、国家をつくることができない。人間をうごかしているのが理性ではなく、目の前の欲望だからで、その欲望を反映させるものが自由主義や個人主義、民主主義である。
 その啓蒙主義的なイデオロギーに価値があったのは、革命のエネルギーがもえたぎっていた18世紀の市民革命の時代までである。歴史上、価値があって、現在も価値があるのは、イデオロギーではなく、調和という文化である。その文化が集団主義で、聖徳太子の「和をもって貴し(たっとし)となす(十七条憲法)」が和の心≠フ神髄として、いまもなお、日本人のなかに生きている。日本中の町が清潔で、日本人に人情があって親切、善意にあふれているのは集団主義だからで、法で規制されなくとも、身勝手やエゴイズム、わがままを自省する気質が日本人にはおのずとそなわっているのである。

 ●無軌道な自由を制限する人格や人徳、モラル
 日本人は集団主義的という反省や自己批判が根強くゆきわたっている。その反動かどうか、個性や個人性がことさらにもちあげられて、じぶんらしさなどという意味不明なことばも流通している。
『集団主義という錯覚〜日本人論の思いちがいとその由来(東京大学名誉教授高野陽太郎)』に「日本人は集団主義的という認識はつくりだされたもの」とあって、集団主義が、逆説的に、民族的な欠陥としてあつかわれているが、集団主義は、長所であって、短所や欠点ではない。
 集団主義は、他者や世間と共存する文化で、個人の利益と集団の利益を同等、あるいは、個人より集団の利益を重視する傾向をもつ。一方、個人主義は、個人の目標達成や自己実現、自己完結性を重視する文化で、集団の利益よりも個人の利益をもとめる。
 西洋人が個人主義的になったのは、神と個人が信仰契約する16世紀のプロテスタンティズム以降である。それまで、世界は神のもので、じぶんは、神のシモベでしかなかった。だが、聖書をとおして、神と信仰契約するプロテスタンティズムによって、神から見られている個人が出現して、それが個人主義の萌芽となった。
 日本に個人主義がうまれなかったのは、多神教で、信仰契約がなかったからである。天神地祇と自然・人間・社会環境(ミクロコスモス)に囲まれて一家眷属が生きてゆくのに個人性などどこからも要請されない。
 もともと、個人主義は、世界原理に反している。世界には、個人主義や自由を収容する十分なスペースがないからである。したがって、最大多数が生きてゆくには、個人主義が制限されなければならない。それが、人格や人徳、モラルで、人間の根本は、集団主義に立っている。
 集団主義が、愛や利他心、礼儀や尊敬心を土台にしているのは、いうまでもない。法や掟、同調圧力や忖度、空気(ニューマ)読みも必要で、個人主義や自由主義を野放しにして、国家がなりたつわけはないのである。
 
 ●自由も平等も、民主主義も集団主義
「他人に迷惑をかけないかぎりなにをやってもよい」と説く学者(池田清彦/早稲田大学名誉教授/フジテレビ「ホンマでっか!?TV」)もいるが、自由は個人のものではなく、他者と共存するための相互主観性の問題で、集団のものである。自由が個人のものならなにをやってもよいのはあたりまえで、集団のものだからこそ、他人に迷惑をかけないというゆるがせにできない鉄則がでてくるのである。
 自由も平等も、民主主義も基本的人権も、他者との関係を土台にしている。
 人間が人間らしく生きられるのは、集団性や関係性が成立しているかぎりにおいてで、したがって、自由は、制限されなければ、自由たりえない。
 改革や規制緩和は歓迎だが、規制には反対というヒトが多いが、法治国家の根本は、法という規制で、六法はそのためにある。規制というガードレールがなければ、自由によって自由が殺されるというパラドックスが生じるのは、子どもにもわかる理屈である。
 ところが、ルソー主義を盲信する多くの日本人は、人間は、自由になるほどシアワセになると信じてやまない。
 自然状態では「万人の万人よる戦争がおきる」といったホッブズにたいしてルソーは「人間は自由なものとして生まれたが、いたるところで鎖につながれている」と反駁した。ルソーやマルクス、フロイトがすきな日本人はルソーをうけいれたが、人間がうまれながらに自由だったのなら、うまれてすぐに立ち上がって辺りをかけまわっていたはずである。人間が単独で生きてゆけるまで十年以上かかる。それでも、自由というにはほど遠く、人間は、一生、じぶんという不自由な牢獄につながれたままなのである。

 ●新自由主義に破壊された資本主義の精神
 自由主義経済も、自由を制限しなければ、破滅へむかうことになる。
 企業形態がIT・AI関連に集中している現在、中国をふくめた世界経済の行く末を楽観することはできない。資本主義が不景気や不況、高インフレやデフォルトをこえた構造矛盾につきあたって、たちゆかなくなる可能性があるからである。企業収益がIT・AI企業に集中して、経済の空洞化と偏向がすすんでいるのである。
 資本主義は、企業による利益収奪機関ではなく、生産と消費、雇用と金融をとおして、社会全体に富がつみあげられてゆくシステムで、社会的な善≠ナある。
 日本の商道がめざしたのも、近江商人の売り手と買い手、世間の「三方良し」から江戸商道の合理性や徳や義で、代表的な人物に「堅く奢侈を禁ず。厳に倹約を心掛けよ」とした三井高利(越後屋/三井財閥)がいた。
 ところが、現在の経済は、竹中平蔵に代表される「儲かりゃいい」の新自由主義で、これが世界的に蔓延して、レーニンが『帝国主義論』でいったような侵略経済が進行しつつある。グローバル化した経済は米中の両帝国に握られていて、中国からおしつけられた巨額債務(債務のワナ)を返済できずに国家が経済破綻したスリランカのようなケースまででてきた。
 国家や国民をうるおす公器だった経済が、世界征服の道具になって、米中の毒牙がおよんでいない地域は、いまや、アフリカの一部だけになって、中国「一帯一路」の参加国も172か国(2021年)にふえた。
 経済が利益の収奪構造や他国侵略の武器になって、国民生活が疲弊しているのにくわえて、麻薬と貧困、凶悪犯罪がはびこって、多くの国々が窮地に追いこまれている。
 次回以降、旧植民地勢力などの動向見ふまえて、世界情勢を再点検してみよう。
posted by office YM at 01:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする