●結果論でうごく政治のリアリズム
政治の世界が、なまぬるい動機論ではなく、血も涙もない結果論なのはいうまでもない。
「戦争は政治と異なる手段をもってする政治の継続」と喝破したのはドイツのクラウゼウィッツだったが、現在も、この大原則は生きている。
アメリカのイラク戦争や中国の一帯一路、ロシアのウクライナ侵略が問われたのは、結果がすべての結果論で、動機論をいくら語ったところで、すべて後の祭りである。
結果だけが問われる政治の現実にたいして、甘ったるい動機論をくり広げているのが日本の左翼で、こうあるべき、かくあるべき、と空理空論にうつつをぬかしている。
現実から離れて、空想の世界にあそぶのが日本の平和主義で、東大を頂点とするインテリ左翼は、戦後、日本で平和がまもられたのは憲法九条のおかげという寝ぼけたことをいって恥じる様子もない。
橋下徹は、ウクライナ国民4000万人は、生命をまもるため祖国を捨てて難民になり、十年後に帰国して国土を再建すべきと小学生のようなことをいったが、マスコミはこれを批判するどころか、個人を国家の上位におく橋下イズムをもちあげた。橋下から日本弁護士連合会まで、法律家が左翼的なのは、国家の根源を、国体や歴史ではなく、法におくからで、法治主義は、伝統や文化、習俗を人工の法に切り替えようとする革命運動でもあったのである。
戦争がおきた場合、国家のためにたたかうかという国際機関のアンケートにイエスとこたえた日本は13%で、世界79か国中、最下位だった。参加国の平均値が約70%、78位のリトアニアのイエスが33%だったことを思えば日本の13%がいかに異常な数字だったかがわかるだろう。
戦争がおきても、9割に近い国民がたたかわない異様な国、日本にあるのは、個人や私性だけで、国家や国体、歴史や文化にたいする尊敬心や帰属意識、全体に目を配る哲学や公的な精神が完全に脱落している。
●個人的感情の延長線上にある日本の民主主義
日本人は、民主主義や基本的人権、自由や平等は、個人にあたえられたものと思っている。
したがって、人類的な課題や国家的な使命、普遍的な目的が目に入らない。
個人的な損得や私的な感情、都合がすべてだからで、国家や歴史、共同体や全体性とは無関係に単独で生を営んでいる日本人は、孤独な個人つまり私人でしかない。
日本人は、生命が大事と口を揃えるが、国家や歴史、文化から断ち切られた生命になんの意味があるだろう。
安倍元首相を殺害した狙撃犯は、宗教問題にかかる個人的な恨みから犯行におよび、獄中から弁護団や全国の支援者らに感謝のメッセージを送っているという。
現在の日本人は、この行動の異様さに気がつかない。
個人や私人を生きているので、国連総会演説で世界の首脳を感動させた安倍晋三首相(一般討論演説)の精神と、家庭の財産トラブルから殺意をもった狙撃犯の狂気の区別がつかないのである。
否、個人や私人のレベルでは、人類の理想と狂人の妄念が同一のものとして並列される。
日本の自由主義は、なにをするのも個人の勝手だが、ヨーロッパの自由主義は、自由の制限である。個人主義も、個人が侵してはならないタブーの設定である。そこからヨーロッパ保守主義からモラルの思想がうまれて、自由や平等、権利が他者や社会をまもる、秩序の体系となった。
安倍晋三元首相を殺害したのは、元海上自衛隊員だったが、坂本雄一陸将ら幹部8人が同乗していた陸上自衛隊のヘリコプターが宮古島海域で墜落した事件では、内部犯行説がささやかれている。背景に自衛隊幹部の三菱電機への大量の天下り構造があるというというのだが、そういう噂が流れることじたいすでに重大な不祥事なのである。
日本では、皇族をまもるべき皇宮警察が、愛子さまを「クソガキ」と呼んでも問題にならず、自衛隊のなかで処遇などについて不穏な空気が渦巻いていようと、橋下徹がウクライナ4000万国民に命をまもるために国を捨てるようにうったえようと、異様とはうけとめられない。
日本という国家、日本人という人間の在り方に狂いが生じていると考えざるをえない。
●国家観や公的精神を失って個人や私人に転落した日本人
変調の元凶は、公的精神の欠如にあるのはいうまでもない。国家や社会、共同体への尊敬心や帰属心が、全体の一員たる日本人にそなわっていなければ、国家も国民もともに成り立たないのである。
人間や共同体は、それ自体、単独で存在しているわけではない。個と全体が二元論的にささえあって、国家と国民が成立している。これは、結果論でもあって、たとえ、動機論的には個人や集団でも、そこに政治イデオロギーがはたらけば、結果的に、国民と国家という政治的な存在になるのである。
左翼陣営から、かつての大東亜共栄思想は、侵略戦争の合理化という批判がなされる。
日本のアジア侵攻は、帝国主義政策で、むろん、アジア解放をめざしたものではなかった。
だが、第二次世界大戦後、イギリスやフランス、アメリカやオランダなどの植民地支配から独立したアジアとアフリカ、中東諸国が結集したバンドン会議(第1回アジア・アフリカ会議/1955年)で、日本は、招待されて大歓迎をうけた。
迎えたのは、戦後に独立したインドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領らだが、同会議の参加国は29か国で当時の世界人口の54%を占めていた。
会議には、高碕達之助や加瀬俊一(のちに国連大使)ら外務省関係者十数名が参加したが、加瀬は当時の熱狂的な歓迎ぶりをこう書き記している。
「各国代表から握手をもとめられた。かれらは、日本が、大東亜会議で宣言をだしてくれていなかったら、われわれは、列強の植民地のままであったろうと口をそろえた」
大東亜会議の参加者は、東條英機のほか中国南京政府の汪兆銘、満州の張景恵国務総理、インド国民軍のチャンドラ・ボース、ビルマのバー・モウ行政府長官、タイのワンワイタヤーコーン親王、フィリピンのラウレル大統領の7人で、終戦2年前の昭和18年の段階で、米英支配の打破が明確に打ち出された。
政治は、結果論なので、大東亜共栄思想は、第三世界の独立に大いなる貢献をおこなったといいうるのである。
●グローバルサウスにひきつがれた大東亜宣言とバンドン会議の精神
1964年に予定されていた「第2回会議バンドン会議」は中印国境紛争やナセルのアラブ連合形成の失敗、スカルノの失脚などによって開催が不可能となったが、50年後の2005年、インドネシアで「バンドン会議50周年を記念する首脳会議」がひらかれた。
このとき、AAおよび中南米から106カ国が参加して、欧米の帝国主義的なグローバリゼーションに対抗できるアジア・アフリカによる戦略的な連帯を宣言した。
2015年、ジャカルタで「バンドン会議60周年を記念する首脳会議」がおこなわれて、109か国の首脳・閣僚が参加したが、安倍晋三首相と中国の習近平主席がこのとき首脳会談をおこない、悪化していた関係改善の合意をむすんでいる。
バンドン会議の延長がグローバルサウスで、さらに原形をもとめると大東亜会議にゆきつく。大東亜会議にビルマの国家元首として出席したバー・モウは戦後の回想録のなかでこう指摘している。
「日本の大東亜会議は、十二年後、バンドン会議で結実した。バンドン会議の精神がアジア・アフリカの旧植民地勢力の躍進を約束してくれている」
バンドン会議六十周年の開会式の直後、安倍首相は元日本兵墓地(カリバタ英雄墓地)を訪れて献花をおこなった。首相は、演説で、バンドン会議と大東亜会議の関係にふれなかったが、関係諸国は、安倍首相の真意と歴史をわかっていた。
日本のメディアは「桜を見る会」の追及に忙しくてこれら一連の事実関係を報道しなかったが、同会議における安倍首相のスピーチは、未来志向に立った名演説として、いまなお、関係者の心に印象深く刻まれている。
次回以降、安倍元首相がふり返った大東亜共栄思想、バンドン会議、グローバルサウスの今後の可能性を展望していこう。
2023年04月17日
2023年04月02日
「自由主義」と「民主主義」の相克と調和10
●国家なくして国民がありうるか
過日、馬毛島問題(米軍機の訓練移転と自衛隊基地整備)の取材に来られた朝日新聞のF記者が「国家主義」ということばをもちいたので、多少、違和感をおぼえた。
10年ほど前、わたしは、馬毛島へ基地整備をすすめる政府・防衛省側と土地所有者の接触に多少かかわりをもったことがあった。
F記者の目的は、その取材だったのだが、馬毛島の整備に積極的な姿勢が国家主義、その文脈で、反対運動をくりひろげる一部住民の姿勢が国民主義的というニュアンスであった。
そうなら、あまりに戯画的な図式で、短絡的にすぎる。
戦後、日本は「天皇主権と国民主権」「国家主義と国民主義」「民主主義と自由主義」「個人主義と全体主義」「平等主義と封建主義」などの二項対立を一元論的、対立的にとらえてきた。
左翼は、戦前の日本は、天皇主権で、天皇制ファシズムの時代だったという。
当時の日本は、軍国主義で、軍部が天皇を利用したのは事実である。
しかし、天皇が主権を行使したことも、帝国憲法に天皇独裁を謳った文言もなく、政体は、立憲君主制であった。
日本の軍国主義は、天皇の権威を政治利用した軍部独裁であった。
その巧妙な仕組みは、学問的にも研究の余地が十分にあるように思える。
だが、日本の学者は、天皇主権としかいわない。そして、戦後、国民主権になって、日本はよい国になったとくり返すだけだった。
国民主権の国民も、個人をさすのか日本人全体なのかについても、口を濁してはっきりいったことがない。
●戦後日本は、民主主義とマルクス主義の混血児
国民主権も、コケおどしの論理で、東大を中心とする日本の学者は、日本共産党綱領(ドグマ)にそって、イデオロギーの宣伝をやってきただけだった。
その代表が憲法学の最高権威、東大の宮澤俊義で、宮沢の「八月革命説」によって、戦後、日本も革命国家の仲間入りをはたしたとした。
戦後日本の学界は、マルクス学者一色で、大内兵衛や向坂逸郎、羽仁五郎、都留重人、鶴見俊輔、丸山真男らが席巻して、竹山道雄や田中美知太郎、猪木正道、福田恆存、会田雄次ら日本主義者の影は薄かった。
朝日や毎日、岩波ら新聞・出版ジャーナリズムや大学、教育界、日教組らがマルクス主義なので、日本主義=保守主義の思想が大衆へなかなか届かないのである。
戦後日本を席巻したのはマルクス主義だけではなかった。
アメリカ民主主義というマルクス主義の兄弟分のような思想がアメリカから入ってきて、日本の思想界は、マルクス主義とアメリカ民主主義に分断されてしまうのである。
マルクス主義は、革命を実現させた独裁者が国民主権をあずかる一党独裁である。
そして、アメリカ民主主義は、民主選挙で選出された大統領が多数派国民の支持の下で強権を行使する多数派独裁である。
第二次大戦で、日本は、民主主義にアメリカとマルクス主義の旧ソ連の両国とたたかった。旧ソ連もアメリカも、伝統国家日本が敵とする革命国家だったからだった。
そして、終戦後、敗戦国の日本へ、戦勝国の米・ソのイデオロギーが怒濤のように流れこんできた。
その結晶が日本国憲法である。起草にあたったGHQ民政局のホイットニー局長以下25人は、ニューディーラと呼ばれる共産主義のシンパだったからである。
●一元論の「革命国家」と二元論の「伝統国家」
マルクス主義もアメリカ民主主義も、根本にあるのはルソー主義である。
ルソー主義の中心概念は、国家主権の国家を国民へとスゲかえた国民主権で、ルソーの造語である。
アメリカの民主主義も旧ソ連のマルクス主義も、一元論である。一つの価値しかみとめないのが一元論で、アメリカは民主主義を、旧ソ連は人民(一党)独裁以外の政体をみとめない。
戦後、日本では、天皇主権や国家主義、全体主義や封建主義などが徹底的に批判される一方で、国民主権や国民主義、民主主義や個人主義、自由や平等が絶対善としてもちあげられた。
それも一元論で、宮沢の「八月革命説」によると、敗戦革命がおきて、日本の二元論や多元論が、西洋の一元論へ転換された。
国民主権や民主主義、個人主義や人権思想、自由や平等からはずれた保守的な言動がマスコミ世論から袋叩きにされるのは、日本は、西洋的な一元論の国になったからだったのである。
日本の伝統的な価値観や日本主義、およびイギリスの保守主義は、二元論である。
事物を成り立たせているのは、唯一の真実ではなく、表と裏、陰と陽、受動と能動などの二元性であって、異質な二者が組み合わさって、二者を足したもの以上のものができあがる。
「君民共治」や「君臣一体」は、天皇という権威、幕府という権力、民という実体の三位一体のことで、それが国体、伝統国家日本の背骨である。
チャーチルが「民主主義は独裁よりマシなだけ」といったのも、保守主義の父といわれるバークが「制限のない自由は最悪」といったのも、王政復古したイギリスが、王権と議会の二元論へ立ち返ったからで、国王が議会へ出席する際、議会の重鎮を人質にさしだす習慣はいまも残っている。
●ルソーの狂気をいまにひきずる日本の左翼
日本人が西洋から輸入した崇高で有り難い思想と思いこんでいる民主主義や個人主義、自由主義は、世界のどこにもない珍奇な思想で、戦後、左翼がつくりだしたものである。
国民主権は、国家主権からのパクリだった。ルソーの民主主義は、その国民主権のことで、紀元前に捨てられた民主主義が18世紀になってよみがえったのは、主権を国家から国民≠ノスゲかえたルソーの悪知恵にあった。
自由主義は、バークがいったように、自由にたいする制限のことにほかならないが、ルソーは、人間はうまれながらにして自由で平等だと叫んだ。
ルソーは個人もみとめなかった。人間は、すべて一般化された抽象的な存在というのだが、だからこそ、国民は、国家と対等にわたりあえたともいえるだろう。
放浪と放蕩、虚言と裏切りのルソーの人生の末路は哀れなもので、精神異常と被害妄想の狂気の果て、他人の援助でほそぼそと余命をたもったが、尿毒症で死去する。スランス革命後、栄誉の殿堂パンテオンに合祀されたのがせめてもの救いだった。
フランス革命の「人権宣言(自由・平等・博愛)」の原形はルソーの「人間は生まれながらにして自由かつ平等である」だが、この人間は、むろん、個人ではなく、人間一般である。
ところが日本の左翼は、これを個人だとする。
わたし個人が国家権力にひとしい主権をもち、なにするのも勝手な万能的な自由権をもち、神的なパワーによって、基本的人権がまもられていると考えるのである。
クレージーというほかないが、左翼は本気で、日本人は、主権を行使せよと主張する。
次回以降も、日本人を愚かにしてきた左翼の罪を暴いていこう。
過日、馬毛島問題(米軍機の訓練移転と自衛隊基地整備)の取材に来られた朝日新聞のF記者が「国家主義」ということばをもちいたので、多少、違和感をおぼえた。
10年ほど前、わたしは、馬毛島へ基地整備をすすめる政府・防衛省側と土地所有者の接触に多少かかわりをもったことがあった。
F記者の目的は、その取材だったのだが、馬毛島の整備に積極的な姿勢が国家主義、その文脈で、反対運動をくりひろげる一部住民の姿勢が国民主義的というニュアンスであった。
そうなら、あまりに戯画的な図式で、短絡的にすぎる。
戦後、日本は「天皇主権と国民主権」「国家主義と国民主義」「民主主義と自由主義」「個人主義と全体主義」「平等主義と封建主義」などの二項対立を一元論的、対立的にとらえてきた。
左翼は、戦前の日本は、天皇主権で、天皇制ファシズムの時代だったという。
当時の日本は、軍国主義で、軍部が天皇を利用したのは事実である。
しかし、天皇が主権を行使したことも、帝国憲法に天皇独裁を謳った文言もなく、政体は、立憲君主制であった。
日本の軍国主義は、天皇の権威を政治利用した軍部独裁であった。
その巧妙な仕組みは、学問的にも研究の余地が十分にあるように思える。
だが、日本の学者は、天皇主権としかいわない。そして、戦後、国民主権になって、日本はよい国になったとくり返すだけだった。
国民主権の国民も、個人をさすのか日本人全体なのかについても、口を濁してはっきりいったことがない。
●戦後日本は、民主主義とマルクス主義の混血児
国民主権も、コケおどしの論理で、東大を中心とする日本の学者は、日本共産党綱領(ドグマ)にそって、イデオロギーの宣伝をやってきただけだった。
その代表が憲法学の最高権威、東大の宮澤俊義で、宮沢の「八月革命説」によって、戦後、日本も革命国家の仲間入りをはたしたとした。
戦後日本の学界は、マルクス学者一色で、大内兵衛や向坂逸郎、羽仁五郎、都留重人、鶴見俊輔、丸山真男らが席巻して、竹山道雄や田中美知太郎、猪木正道、福田恆存、会田雄次ら日本主義者の影は薄かった。
朝日や毎日、岩波ら新聞・出版ジャーナリズムや大学、教育界、日教組らがマルクス主義なので、日本主義=保守主義の思想が大衆へなかなか届かないのである。
戦後日本を席巻したのはマルクス主義だけではなかった。
アメリカ民主主義というマルクス主義の兄弟分のような思想がアメリカから入ってきて、日本の思想界は、マルクス主義とアメリカ民主主義に分断されてしまうのである。
マルクス主義は、革命を実現させた独裁者が国民主権をあずかる一党独裁である。
そして、アメリカ民主主義は、民主選挙で選出された大統領が多数派国民の支持の下で強権を行使する多数派独裁である。
第二次大戦で、日本は、民主主義にアメリカとマルクス主義の旧ソ連の両国とたたかった。旧ソ連もアメリカも、伝統国家日本が敵とする革命国家だったからだった。
そして、終戦後、敗戦国の日本へ、戦勝国の米・ソのイデオロギーが怒濤のように流れこんできた。
その結晶が日本国憲法である。起草にあたったGHQ民政局のホイットニー局長以下25人は、ニューディーラと呼ばれる共産主義のシンパだったからである。
●一元論の「革命国家」と二元論の「伝統国家」
マルクス主義もアメリカ民主主義も、根本にあるのはルソー主義である。
ルソー主義の中心概念は、国家主権の国家を国民へとスゲかえた国民主権で、ルソーの造語である。
アメリカの民主主義も旧ソ連のマルクス主義も、一元論である。一つの価値しかみとめないのが一元論で、アメリカは民主主義を、旧ソ連は人民(一党)独裁以外の政体をみとめない。
戦後、日本では、天皇主権や国家主義、全体主義や封建主義などが徹底的に批判される一方で、国民主権や国民主義、民主主義や個人主義、自由や平等が絶対善としてもちあげられた。
それも一元論で、宮沢の「八月革命説」によると、敗戦革命がおきて、日本の二元論や多元論が、西洋の一元論へ転換された。
国民主権や民主主義、個人主義や人権思想、自由や平等からはずれた保守的な言動がマスコミ世論から袋叩きにされるのは、日本は、西洋的な一元論の国になったからだったのである。
日本の伝統的な価値観や日本主義、およびイギリスの保守主義は、二元論である。
事物を成り立たせているのは、唯一の真実ではなく、表と裏、陰と陽、受動と能動などの二元性であって、異質な二者が組み合わさって、二者を足したもの以上のものができあがる。
「君民共治」や「君臣一体」は、天皇という権威、幕府という権力、民という実体の三位一体のことで、それが国体、伝統国家日本の背骨である。
チャーチルが「民主主義は独裁よりマシなだけ」といったのも、保守主義の父といわれるバークが「制限のない自由は最悪」といったのも、王政復古したイギリスが、王権と議会の二元論へ立ち返ったからで、国王が議会へ出席する際、議会の重鎮を人質にさしだす習慣はいまも残っている。
●ルソーの狂気をいまにひきずる日本の左翼
日本人が西洋から輸入した崇高で有り難い思想と思いこんでいる民主主義や個人主義、自由主義は、世界のどこにもない珍奇な思想で、戦後、左翼がつくりだしたものである。
国民主権は、国家主権からのパクリだった。ルソーの民主主義は、その国民主権のことで、紀元前に捨てられた民主主義が18世紀になってよみがえったのは、主権を国家から国民≠ノスゲかえたルソーの悪知恵にあった。
自由主義は、バークがいったように、自由にたいする制限のことにほかならないが、ルソーは、人間はうまれながらにして自由で平等だと叫んだ。
ルソーは個人もみとめなかった。人間は、すべて一般化された抽象的な存在というのだが、だからこそ、国民は、国家と対等にわたりあえたともいえるだろう。
放浪と放蕩、虚言と裏切りのルソーの人生の末路は哀れなもので、精神異常と被害妄想の狂気の果て、他人の援助でほそぼそと余命をたもったが、尿毒症で死去する。スランス革命後、栄誉の殿堂パンテオンに合祀されたのがせめてもの救いだった。
フランス革命の「人権宣言(自由・平等・博愛)」の原形はルソーの「人間は生まれながらにして自由かつ平等である」だが、この人間は、むろん、個人ではなく、人間一般である。
ところが日本の左翼は、これを個人だとする。
わたし個人が国家権力にひとしい主権をもち、なにするのも勝手な万能的な自由権をもち、神的なパワーによって、基本的人権がまもられていると考えるのである。
クレージーというほかないが、左翼は本気で、日本人は、主権を行使せよと主張する。
次回以降も、日本人を愚かにしてきた左翼の罪を暴いていこう。