●個と全体の利害を調整するのが政治
有史以来、人類を悩ませてきて、いまだに解決されない難問に個と全体の矛盾≠ェある。
個の利益だけをもとめると、全体の利益が害われる。
全体の利益をもとめると、個人の利益が侵害される。
この二律背反を人類はどうしてものりこえることができなかった。
個と全体の両方の利益をもとめるのが政治だが、その政治の原理はいまだに確立されていない。
政治は、集団や共同体、国家の安全や繁栄もとめる全体の論理である。
一方、心の安らぎや魂の救済をもとめる宗教や人生観や価値観にもとづいた道徳、タブーの体系である法律は、個の論理あるいは私的な感情である。
政治という全体を重んじると個が軽視され、宗教や道徳、法という個を重んじると全体がないがしろにされる。
政治という全体の論理と、宗教や道徳、法という個の論理が両立しないのは構造矛盾(「個と全体の利害は対立する」)にとりこまれているからである。
西洋では、紀元前のギリシア哲学以来、個と全体のこの矛盾を解消しようと賢人たちが知恵を絞ってきたが、ついに妙案はでてこなかった。
もっとも、西洋の一神教や一元論から個と全体の矛盾≠解消する知恵が出てくるはずはなかった。
なぜなら、個と全体の矛盾は、一神教や一元論からでてきたものだったからで、キリスト以前、神話と多神教だった古代のギリシァやローマに個と全体の矛盾などなかった。
●西洋の一元論の欠陥を克服した天皇の二元論
個と全体の矛盾という大問題を解消したのは、西洋ではなく、その西洋から遠く隔たったアジアの島国日本で、日本が、個と全体の矛盾という一元論的な迷妄から自由だったのは、天皇の国だったからである。
古代縄文文化の国、日本は、アニミズムの自然崇拝と多神教の国である。
神話と天皇の国日本は、二元論の国でもあって、権威と権力、国体と政体の二元論の下で「君民共治」「君臣一体」という一神教、一元論の西洋では考えられもしない柔軟な政治体制がとられてきた。
西洋で絶対矛盾がでてきたのは、一神教や一元論が、正しいものや絶対的な価値は一つしかないとしたからだった。
ところが、日本に根づいたのは、硬直した一神教や一元論ではなく、柔軟な多神教や二元論だった。そこから、多様性や奥行き、変化にとんだ両面価値(アンビバレンス)やあいまいさ、中庸の徳といった中間色の文化が生まれた。
個と全体の矛盾を克服できていない西洋の文化は、極彩色の一元論である。
自由や平等、権利や民主主義は、革命をとおして民衆が権力から奪ったもので、あとに残ったのは、永遠の「闘争の論理」で、左翼は、いまなお、自由や平等、権利や民主主義を権力から奪えとこぶしをふりあげる。
国家や歴史、文化に拠って立つ政治と、宗教や道徳、法に拠って立つ個人が引き裂かれた結果、民と国家が融合することなく、険しく対立する革命史観がうまれた。
そのケースの一つにあげられるのがオウム真理教事件で、法悦やカルト(宗教的狂気)という個人の宗教を絶対視して、社会や国家、公共性が否定された結果、サリン事件のような凶悪犯罪がおきた。
神の恩恵や法悦、救済という個人の自己満足のためなら社会や国家は否定されてもよいというのが宗教の独善で、その独善によって、西洋では、宗教戦争や異端審判、魔女狩りのような惨劇がひきおこされた。
●自由や平等、権利や民主主義は信仰ではなく社会制度
自由や平等、権利や民主主義を奉って他人や国家も眼中にないという日本の風潮も、ほとんど、宗教の感覚で、自由や平等、権利や民主主義が、モーゼの十戒のような有り難い預言になっている。
犯罪者にも人権があるといって騒ぐヒトがいるが、人権も民主主義も、自由も平等もすべてフィクションで、うまれながらにして個人にそなわっているものなど、なに一つない。
自由や平等、権利や民主主義は、国家が保証してくれる社会制度で、それらの制度が国民に分有されて、はじめて、個人のものになる。
交通安全は、交通法規があるからではなく、交通インフラが整備されているから実現されるのである。
日本の安全がまもられているのも、憲法九条があるからではない。
日本が世界7位の防衛力をもち、一方、日米安保という軍事同盟があるからで、憲法九条があるから日本は平和なのだというのは、宗教というより、カルト思想である。
日本の自由や平等、権利や民主主義は、宗教のカテゴリーに入っている。
したがって、いかに運用すべきかではなく、どれほど深く信仰しているかが問われる。
だが、自由や平等、権利や民主主義は、個人の信仰対象ではなく、社会の制度である。
したがって、個人の特権ではなく、社会的な制限や規制としてはたらく。
分有される自由や平等、権利や民主主義は、じぶんだけのものではないからで、他人や社会に無益にして有害な自由や平等、権利や民主主義は、悪の思想なのである。
個人の宗教的な価値観と、全体の社会制度を二元論でつないだ日本の文化や思想が、もういちど見直されてよいだろう。
2023年06月26日
2023年06月12日
グローバルサウスと大東亜共栄思想4
●自由や民主が個人の特権となっている日本
明治新以降、日本は、西洋の思想を有難がって、無条件にとりいれてきた。
だが、ほとんどが、誤解や曲解、歪曲で、真の意味をとりちがえている。
その傾向は、明治時代よりも、むしろ、大正や昭和になって高まった。
1917年のロシア革命後、吉野作造の「民本主義(君民共治)」が大正デモクラシーのもとでルソー的な「民主主義(国民主権)」になると、自由や平等にたいする考え方もルソー的、マルクス主義的なものへと変質してゆく。
西尾幹二はこういう。「自由はそれだけではおよそ何ものでもない。その自由が奪われたとき強烈な自由への欲求がわきだす」
自由や平等、人権などは、奪われたとき、ヒトは、これを渇望するのであって、奪われてもいない自由や平等、人権をもとめるのは、革命主義で、文句をつけて体制をひっくり返そうという魂胆があるからである。
西尾はこうともいう。「ヨーロッパ人の自他の厳格な区別立ては、そのなかに、熱病じみたアナーキーという闇を秘めている。一方、日本人の自他意識は不明確(あいまい)で、ヨーロッパ人とは一味も二味もちがったデリケートな性格をそなえている。原理や原則にとらわれることなく、変化に対応する柔軟さをもち、実際的である」(『自由の悲劇』)
西洋の自由や平等、民主や人権は、奪われることにたいする抵抗である。
したがって、他人の自由や平等、民主や人権を奪うことも、罪悪になる。
ところが、日本では、じぶんの自由や平等、民主や人権をまもるには他人のそれは意に介さないという風潮で、言論被害をかえりみない言論の自由、被害者の人権を無視する加害者の人権擁護がまかりとおっている。
●歴史や伝統、文化を否定する左翼と法匪
自由主義だからなにやってよいというのがリバタリアン(完全自由主義者)である。テレビの人気番組『ホンマでっかTV』のコメンテーター早稲田大学名誉教授の池田清彦は「他人に迷惑をかけないかぎりなにをやってもよい」と説くが、この男は、日本共産党の熱烈な支持者で同党の宣伝塔でもある。
リバタリアンが自由をみとめない共産主義を支持するという理屈は解せないが、完全自由主義者を公言する池田が共産主義者で、自由の真の意味を理解していなかったとすればうなずける。
池田は、絶対自由というイデオロギーに縛られて、自由を見失っているのである。
昭和天皇の肖像をガスバーナーで燃やしてふみつける映像などを展示した「表現の不自由(国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」)へ公的負担金(約1億3700万円)の残金(約3380万円)一部の支払いを拒否した名古屋市にたいして、名古屋高等裁判所は、残金の支払いを命じた。
「昭和天皇の肖像に火をつけてふみつける映像も表現の自由にふくまれる」という判断で、違約行為はなかったというのである。そして、高須クリニックの高須克弥院長や大阪府内在住の主婦3人らが「表現の不自由展」から精神的な苦痛をうけたとする訴えはあっさりと退けて、主催者の愛知県大村秀章知事や芸術監督の津田大介らにはいっさいおトガめなしだった。
政治は、国家や文化など歴史の知恵にもとづくが、法治は、人間が決めた法律のみを根拠にする。
法文のみを奉じて、善悪や社会通念、価値観ぬきで判断を下す裁判官が法匪といわれるゆえんで、法匪の匪は盗賊の賊と同じ意味である。
司法や検察、弁護士会が反国家的なのは、国家や歴史、文化ではなく法律や観念、イデオロギーに拠って立つからだが、これは、左翼が国体や歴史よりも西洋の思想家(マルクスやルソー)を重く見るのと同じ構造である。
●共同体が個≠竍私≠ヨ分解してゆく危うさ
自由主義は、自由の有り難さを万人で共有しようというもので、個人の特権ではない。
これを、個人的自由と分けて、あえて、社会的自由と呼ばれる。
ヨーロッパでうまれた自由の概念は、社会的自由で、そのテキストとなっているのがホブハウスの『自由主義―福祉国家への思想的転換』である。
そこにこうある。「いかなる時代でも、禁止なくして、社会的自由はありえない」
自由は、規制を必要として、その規制が社会の自由を約束するといっているのである。
福祉国家というのは「君民共治」のことで、万民の幸を公平に考える天皇の大御心(藤田東湖『弘道館記述義』)が、近代ヨーロッパの進歩的自由主義にきわめて近かったのである。
他人に迷惑かけないかぎりなにをやっても自由(リバタリアニズム)という思想やアナキズム(無政府主義)は、戦後日本の特異な思想で、こんなばかな考えが世界で通用するわけはない。
日本で、社会的自由と対立する個人的自由は、基本的人権と呼ばれる。
日本国憲法では、この基本的人権と、国民主権が二本柱になっている。
だが、日本以外の国では、自由も人権も、平等も民主主義も、個人にあたえられたものではなく、社会的な価値である。
そんなことは、ホッブズが17世紀に「万人による万人の戦争」という比喩をもちいて指摘して以来、常識になっていたはずである。
民主主義を個人的信条やイデオロギーとしてとらえると、個人だけに都合のよい身勝手な思想になる。
だが、国家や社会など全体のものとしてみると、民主主義は君民共治≠フ民本主義となって、望ましい体制となる。
民主主義や国民主権、自由や平等を個人のものとするから混乱がおきるのである。
そこに、保守主義や伝統的な精神、思想がもとめられる理由がある。
現在、日本では、個人が最大の特権をもって、他者や国家、歴史や伝統的な価値を否定する風潮がはびこって、社会摩擦をひきおこしている。
次回以降、同性結婚法制化などのような、国家や共同体が個≠竍私≠ヨ分解してゆく危険性についてのべよう。
明治新以降、日本は、西洋の思想を有難がって、無条件にとりいれてきた。
だが、ほとんどが、誤解や曲解、歪曲で、真の意味をとりちがえている。
その傾向は、明治時代よりも、むしろ、大正や昭和になって高まった。
1917年のロシア革命後、吉野作造の「民本主義(君民共治)」が大正デモクラシーのもとでルソー的な「民主主義(国民主権)」になると、自由や平等にたいする考え方もルソー的、マルクス主義的なものへと変質してゆく。
西尾幹二はこういう。「自由はそれだけではおよそ何ものでもない。その自由が奪われたとき強烈な自由への欲求がわきだす」
自由や平等、人権などは、奪われたとき、ヒトは、これを渇望するのであって、奪われてもいない自由や平等、人権をもとめるのは、革命主義で、文句をつけて体制をひっくり返そうという魂胆があるからである。
西尾はこうともいう。「ヨーロッパ人の自他の厳格な区別立ては、そのなかに、熱病じみたアナーキーという闇を秘めている。一方、日本人の自他意識は不明確(あいまい)で、ヨーロッパ人とは一味も二味もちがったデリケートな性格をそなえている。原理や原則にとらわれることなく、変化に対応する柔軟さをもち、実際的である」(『自由の悲劇』)
西洋の自由や平等、民主や人権は、奪われることにたいする抵抗である。
したがって、他人の自由や平等、民主や人権を奪うことも、罪悪になる。
ところが、日本では、じぶんの自由や平等、民主や人権をまもるには他人のそれは意に介さないという風潮で、言論被害をかえりみない言論の自由、被害者の人権を無視する加害者の人権擁護がまかりとおっている。
●歴史や伝統、文化を否定する左翼と法匪
自由主義だからなにやってよいというのがリバタリアン(完全自由主義者)である。テレビの人気番組『ホンマでっかTV』のコメンテーター早稲田大学名誉教授の池田清彦は「他人に迷惑をかけないかぎりなにをやってもよい」と説くが、この男は、日本共産党の熱烈な支持者で同党の宣伝塔でもある。
リバタリアンが自由をみとめない共産主義を支持するという理屈は解せないが、完全自由主義者を公言する池田が共産主義者で、自由の真の意味を理解していなかったとすればうなずける。
池田は、絶対自由というイデオロギーに縛られて、自由を見失っているのである。
昭和天皇の肖像をガスバーナーで燃やしてふみつける映像などを展示した「表現の不自由(国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」)へ公的負担金(約1億3700万円)の残金(約3380万円)一部の支払いを拒否した名古屋市にたいして、名古屋高等裁判所は、残金の支払いを命じた。
「昭和天皇の肖像に火をつけてふみつける映像も表現の自由にふくまれる」という判断で、違約行為はなかったというのである。そして、高須クリニックの高須克弥院長や大阪府内在住の主婦3人らが「表現の不自由展」から精神的な苦痛をうけたとする訴えはあっさりと退けて、主催者の愛知県大村秀章知事や芸術監督の津田大介らにはいっさいおトガめなしだった。
政治は、国家や文化など歴史の知恵にもとづくが、法治は、人間が決めた法律のみを根拠にする。
法文のみを奉じて、善悪や社会通念、価値観ぬきで判断を下す裁判官が法匪といわれるゆえんで、法匪の匪は盗賊の賊と同じ意味である。
司法や検察、弁護士会が反国家的なのは、国家や歴史、文化ではなく法律や観念、イデオロギーに拠って立つからだが、これは、左翼が国体や歴史よりも西洋の思想家(マルクスやルソー)を重く見るのと同じ構造である。
●共同体が個≠竍私≠ヨ分解してゆく危うさ
自由主義は、自由の有り難さを万人で共有しようというもので、個人の特権ではない。
これを、個人的自由と分けて、あえて、社会的自由と呼ばれる。
ヨーロッパでうまれた自由の概念は、社会的自由で、そのテキストとなっているのがホブハウスの『自由主義―福祉国家への思想的転換』である。
そこにこうある。「いかなる時代でも、禁止なくして、社会的自由はありえない」
自由は、規制を必要として、その規制が社会の自由を約束するといっているのである。
福祉国家というのは「君民共治」のことで、万民の幸を公平に考える天皇の大御心(藤田東湖『弘道館記述義』)が、近代ヨーロッパの進歩的自由主義にきわめて近かったのである。
他人に迷惑かけないかぎりなにをやっても自由(リバタリアニズム)という思想やアナキズム(無政府主義)は、戦後日本の特異な思想で、こんなばかな考えが世界で通用するわけはない。
日本で、社会的自由と対立する個人的自由は、基本的人権と呼ばれる。
日本国憲法では、この基本的人権と、国民主権が二本柱になっている。
だが、日本以外の国では、自由も人権も、平等も民主主義も、個人にあたえられたものではなく、社会的な価値である。
そんなことは、ホッブズが17世紀に「万人による万人の戦争」という比喩をもちいて指摘して以来、常識になっていたはずである。
民主主義を個人的信条やイデオロギーとしてとらえると、個人だけに都合のよい身勝手な思想になる。
だが、国家や社会など全体のものとしてみると、民主主義は君民共治≠フ民本主義となって、望ましい体制となる。
民主主義や国民主権、自由や平等を個人のものとするから混乱がおきるのである。
そこに、保守主義や伝統的な精神、思想がもとめられる理由がある。
現在、日本では、個人が最大の特権をもって、他者や国家、歴史や伝統的な価値を否定する風潮がはびこって、社会摩擦をひきおこしている。
次回以降、同性結婚法制化などのような、国家や共同体が個≠竍私≠ヨ分解してゆく危険性についてのべよう。
2023年06月04日
グローバルサウスと大東亜共栄思想3
●私的感情だけで殺人に走る恐怖のじぶん主義
私的な財産問題で逆恨みして安倍晋三元首相を射殺した山上徹也、じぶんが選挙に出られないのは選挙制度が悪いからという私的憤懣から岸田文雄首相を爆弾で殺そうとした木村隆二、悪口をいわれたという思いこみから4人を銃殺した青木政憲ら、一昔前まで、考えられもしなかった幼稚で自己中心的な殺人者や凶悪犯が続々とでてきた。
これらの事件に共通しているのが、じぶんのことしか考えることができない幼児性と極端な自己中心的な精神で、心理学で、自我肥大と呼ばれる。
人間は、成熟すると、他者や社会、国家など個や私をこえた存在に気づいて謙虚になる。尊敬心や名誉心、愛国心や公徳心など全体性の価値観に目覚めるのである。そうなると、おのずと自我が小さくなって、その一方、他者への愛や礼節、義理や道徳などの社会性がそなわってくる。
ところが、現在、世の中は、他者や社会、国家など、個や私をこえた価値や基準を否定する方向にうごいている。
同性婚が好例で、マスコミや左翼、法曹界は、同性婚の法制化に不熱心な与党を非難して、世界に遅れているという。世界に遅れているという論法がなりたつのなら、日本が、1919年、パリ講和会議で、世界に先駆けて人種差別撤廃を提案して、英米から拒絶されたことも、日本が世界に遅れていたことになってしまう。
西洋が性的マイノリティーや同性婚に寛容なのは、国家は個人の領域へ立ち入らないという不文律があるからで、どうぞお勝手にという意味である。
ところが、日本では、偏見をもつか差別反対と騒ぐかどちらかである。
常識や習慣、良識にしたがうのではなく、個や私をもちだして、じぶんの気持ちを最優先させるのが現代の風潮で、わたしはこれを自由主義や個人主義、民主主義と区別してじぶん主義≠ニ呼ぶことにしている。
背景にあるのが、消費者や有権者、主権者たる国民を神様とするマスコミのコマーシャリズムや国政選挙、世論における民主主義への盲信で、現在、日本では、社会通念や歴史の知恵よりも、あなたのマネー、あなたの一票、あなたの意見、あなたの主権、あなたの気持ちが大事にされる。
そこからかもしだされるのが、じぶんの気持ちや考えを絶対とする幼児的なじぶん中心主義で、他者や社会、全体へ目がむかない反面、過剰に自我が表にでてくる。
●発狂しつつある日本と橋下徹イズムや瀬戸内寂聴ブーム
本屋には橋下徹の本ばかり並んでいるが、橋下人気やかつての瀬戸内寂聴ブームと狂いつつある現在の日本を切り離して考えることができない。
橋下徹は、ウクライナ4000万国民は、ロシアに歯向かわず、国家を捨てて難民となって、十年後、帰ってきて、国家を再建すればいいと堂々といってのけた。
じぶんの気持ちやじぶんの都合、じぶん(個人)のイノチがいちばん大事で、国家や他人、モラルや常識、伝統的な価値観は二の次というのが橋下イズムで、それが現代の日本の風潮である。
同じ潮流にあったのが瀬戸内寂聴のイノチ主義で、寂聴が最大の敵としたのが国家だった。したがって、国家の繁栄と防衛に一身を捧げた安倍晋三元首相が寂聴の憎むべき天敵となった。
その寂聴をもちあげる一方、安倍元首相を国民の敵として叩きまくったのがマスコミ左翼で、当時、悪いことはすべて安倍が原因という風潮で、野党からマスコミ、検察にいたるまで、桜を見る会問題と森友学園問題、加計学園問題(「モリカケサクラ」)に狂奔して、新聞テレビで、安倍元首相の政治的、外交的功績が報道されることはついぞなかった。
瀬戸内晴美(寂聴)は、夫と3歳の子を捨てて新しい男の元へ走ったふしだらな女で、そんなじぶんを正当化するために迎合的な小説を書いて人気作家になった。さらに、法悦という快をもとめて仏道に入ったという身勝手な女だが、現在、寂聴は、日本でもっとも尊敬される偉人で、文化勲章というおまけまでついている。
なぜか。寂聴の私小説的な自己中心的な身勝手や法匪橋下のエゴイズムが、現代の日本で、自由の象徴となっているからである。
ウクライナ4000万もの国民が難民になる苦しみや3歳のわが子の悲しみよりも、じぶんの気持ちや快楽のほうが大事だったのが橋下イズムや瀬戸内ブームで、日本人は、そっくりこの自己中心主義にはまりこみ、これを個人主義や自由主義、民主主義と思いこんでいる。
●ガキの精神≠ェ犯罪にまで転落した反日左翼
岸田首相が襲撃された前日、作家で法政大学の島田雅彦教授が『安倍三代』(朝日文庫)の著者でジャーナリストの青木理やマルキストで京都精華大准教授の白井聡らと共演するインターネット番組で「(安倍元首相)の暗殺が成功してよかった」などと発言して物議をかもしたが、メディアの取材に応じた島田は、抗弁するどころか、よいチャンスとばかりに自著『パンとサーカス』の宣伝につとめる狡猾漢ぶりだった。
ちなみに、同席していた白井聡は著書(『主権者のいない国』)で「憲法で国民主権が明確に謳われているのにその効力は生かされているのだろうか」とのべている。ばかも休み休みいうもので、国民主権は、個人にあたえられたものではない。辞典に「主権者=統治権をもっている人」とあることから生じた誤解だろうが、主権者(ソブリンティ)は、王権あるいは統治権をのことであって、個人や私人をさしているわけではない。
人気評論家で東京都立大学教授の宮台真司がキャンパス内で、刃物をもった暴漢に襲われて重傷を負い、容疑者が自殺する事件があったが、宮台は、犯人の動機が分からないとコメントした。これは、トボケで、宮台が襲われた原因は、安倍元首相を撃った山上徹也をモデルとした映画(「REVOLUTION+1」)の旗振り役を演じたからである。メガホンを執った足立正生監督が「事件と映画に関係があるかないかいえばあるでしょう。それは本人(宮台)も知っている」とのべている。
足立正生は、レバノンで服役(3年間)したこともある日本赤軍の元メンバーだが、宮台や島田、青木や白井、そして、橋下や寂聴らのあいだに大きな共通点がある。
それは、一人よがりのわたしの気持ち≠オかもっていないガキの精神で、成熟したおとなの知恵がそなわっていない点である。
安倍元首相の国葬に、マスコミがネガティブキャンペーンを張って、全国で国葬反対のデモが吹き荒れた。大きな問題点は、主催側が参加者に鉦や太鼓、タンバリンの持参をもとめたことである。黙祷に騒音を立てて、妨害しようという魂胆だが、これは犯罪(不敬と礼拝妨害/刑法188条2項)で、懲役刑が科せられる。
日本では、反日左翼のガキの精神が犯罪のレベルにまで転落しているのである。
私的な財産問題で逆恨みして安倍晋三元首相を射殺した山上徹也、じぶんが選挙に出られないのは選挙制度が悪いからという私的憤懣から岸田文雄首相を爆弾で殺そうとした木村隆二、悪口をいわれたという思いこみから4人を銃殺した青木政憲ら、一昔前まで、考えられもしなかった幼稚で自己中心的な殺人者や凶悪犯が続々とでてきた。
これらの事件に共通しているのが、じぶんのことしか考えることができない幼児性と極端な自己中心的な精神で、心理学で、自我肥大と呼ばれる。
人間は、成熟すると、他者や社会、国家など個や私をこえた存在に気づいて謙虚になる。尊敬心や名誉心、愛国心や公徳心など全体性の価値観に目覚めるのである。そうなると、おのずと自我が小さくなって、その一方、他者への愛や礼節、義理や道徳などの社会性がそなわってくる。
ところが、現在、世の中は、他者や社会、国家など、個や私をこえた価値や基準を否定する方向にうごいている。
同性婚が好例で、マスコミや左翼、法曹界は、同性婚の法制化に不熱心な与党を非難して、世界に遅れているという。世界に遅れているという論法がなりたつのなら、日本が、1919年、パリ講和会議で、世界に先駆けて人種差別撤廃を提案して、英米から拒絶されたことも、日本が世界に遅れていたことになってしまう。
西洋が性的マイノリティーや同性婚に寛容なのは、国家は個人の領域へ立ち入らないという不文律があるからで、どうぞお勝手にという意味である。
ところが、日本では、偏見をもつか差別反対と騒ぐかどちらかである。
常識や習慣、良識にしたがうのではなく、個や私をもちだして、じぶんの気持ちを最優先させるのが現代の風潮で、わたしはこれを自由主義や個人主義、民主主義と区別してじぶん主義≠ニ呼ぶことにしている。
背景にあるのが、消費者や有権者、主権者たる国民を神様とするマスコミのコマーシャリズムや国政選挙、世論における民主主義への盲信で、現在、日本では、社会通念や歴史の知恵よりも、あなたのマネー、あなたの一票、あなたの意見、あなたの主権、あなたの気持ちが大事にされる。
そこからかもしだされるのが、じぶんの気持ちや考えを絶対とする幼児的なじぶん中心主義で、他者や社会、全体へ目がむかない反面、過剰に自我が表にでてくる。
●発狂しつつある日本と橋下徹イズムや瀬戸内寂聴ブーム
本屋には橋下徹の本ばかり並んでいるが、橋下人気やかつての瀬戸内寂聴ブームと狂いつつある現在の日本を切り離して考えることができない。
橋下徹は、ウクライナ4000万国民は、ロシアに歯向かわず、国家を捨てて難民となって、十年後、帰ってきて、国家を再建すればいいと堂々といってのけた。
じぶんの気持ちやじぶんの都合、じぶん(個人)のイノチがいちばん大事で、国家や他人、モラルや常識、伝統的な価値観は二の次というのが橋下イズムで、それが現代の日本の風潮である。
同じ潮流にあったのが瀬戸内寂聴のイノチ主義で、寂聴が最大の敵としたのが国家だった。したがって、国家の繁栄と防衛に一身を捧げた安倍晋三元首相が寂聴の憎むべき天敵となった。
その寂聴をもちあげる一方、安倍元首相を国民の敵として叩きまくったのがマスコミ左翼で、当時、悪いことはすべて安倍が原因という風潮で、野党からマスコミ、検察にいたるまで、桜を見る会問題と森友学園問題、加計学園問題(「モリカケサクラ」)に狂奔して、新聞テレビで、安倍元首相の政治的、外交的功績が報道されることはついぞなかった。
瀬戸内晴美(寂聴)は、夫と3歳の子を捨てて新しい男の元へ走ったふしだらな女で、そんなじぶんを正当化するために迎合的な小説を書いて人気作家になった。さらに、法悦という快をもとめて仏道に入ったという身勝手な女だが、現在、寂聴は、日本でもっとも尊敬される偉人で、文化勲章というおまけまでついている。
なぜか。寂聴の私小説的な自己中心的な身勝手や法匪橋下のエゴイズムが、現代の日本で、自由の象徴となっているからである。
ウクライナ4000万もの国民が難民になる苦しみや3歳のわが子の悲しみよりも、じぶんの気持ちや快楽のほうが大事だったのが橋下イズムや瀬戸内ブームで、日本人は、そっくりこの自己中心主義にはまりこみ、これを個人主義や自由主義、民主主義と思いこんでいる。
●ガキの精神≠ェ犯罪にまで転落した反日左翼
岸田首相が襲撃された前日、作家で法政大学の島田雅彦教授が『安倍三代』(朝日文庫)の著者でジャーナリストの青木理やマルキストで京都精華大准教授の白井聡らと共演するインターネット番組で「(安倍元首相)の暗殺が成功してよかった」などと発言して物議をかもしたが、メディアの取材に応じた島田は、抗弁するどころか、よいチャンスとばかりに自著『パンとサーカス』の宣伝につとめる狡猾漢ぶりだった。
ちなみに、同席していた白井聡は著書(『主権者のいない国』)で「憲法で国民主権が明確に謳われているのにその効力は生かされているのだろうか」とのべている。ばかも休み休みいうもので、国民主権は、個人にあたえられたものではない。辞典に「主権者=統治権をもっている人」とあることから生じた誤解だろうが、主権者(ソブリンティ)は、王権あるいは統治権をのことであって、個人や私人をさしているわけではない。
人気評論家で東京都立大学教授の宮台真司がキャンパス内で、刃物をもった暴漢に襲われて重傷を負い、容疑者が自殺する事件があったが、宮台は、犯人の動機が分からないとコメントした。これは、トボケで、宮台が襲われた原因は、安倍元首相を撃った山上徹也をモデルとした映画(「REVOLUTION+1」)の旗振り役を演じたからである。メガホンを執った足立正生監督が「事件と映画に関係があるかないかいえばあるでしょう。それは本人(宮台)も知っている」とのべている。
足立正生は、レバノンで服役(3年間)したこともある日本赤軍の元メンバーだが、宮台や島田、青木や白井、そして、橋下や寂聴らのあいだに大きな共通点がある。
それは、一人よがりのわたしの気持ち≠オかもっていないガキの精神で、成熟したおとなの知恵がそなわっていない点である。
安倍元首相の国葬に、マスコミがネガティブキャンペーンを張って、全国で国葬反対のデモが吹き荒れた。大きな問題点は、主催側が参加者に鉦や太鼓、タンバリンの持参をもとめたことである。黙祷に騒音を立てて、妨害しようという魂胆だが、これは犯罪(不敬と礼拝妨害/刑法188条2項)で、懲役刑が科せられる。
日本では、反日左翼のガキの精神が犯罪のレベルにまで転落しているのである。