●佐藤優氏の講師で「太平記」読書会
六月八日、夕刻の六時から、村上正邦先生が主催されてきた「日本再生・一滴の会」の読書会に出席した。吉野の勉強会にひきつづき、講師は、佐藤優氏で、今回は、太平記を読んだ。
出席者全員が、原文と現代語訳を順番に音読する方法で、黙読とはちがう、緊張感と一体感のある読書会となった。
わたしは、若い頃、交通事故で長期入院した際、吉川英治の「私本太平記」を全冊読んだが、佐藤氏は、収監中、今回の勉強会でテキストにもちいている小学館版(全四巻)を熟読したという。
今回、音読という方法をとったのは、誤った権力を討つべしとする佐藤氏の覚悟のあらわれで、後醍醐天皇と楠木正成の、時空をこえた念力をうけとめようというのである。
実際に、権力の罠にかかり、鈴木宗男議員とともに収監された佐藤氏は、いまなお武者姿で、戦場でたたかっている。村上先生も、たたかっておられる。その臨戦感が、今回の読書会に、みなぎっていたように思う。
今後、二年余、今回出席したメンバーが、定期的に読書会をひらき、村上先生のご帰還をお待ちすることになるが、佐藤氏の発案で、秋には、村上先生が収監されている喜連川社会復帰センター近くで、泊り込みの集中読書会がおこなわれることになりそうである。
この読書会のおもしろいところは、講師である佐藤氏の"深読み"である。
今回も、随所に、ユニークな歴史解釈や神学的なヒントがあった。建武の中興は、その百年前におきた承久の変の再現で、現在の異常性は、GHQ占領期の異常性とつながっているというのである。
歴史には、表面的な流れにほかに、目に見えないところを流れる、伏流のようなものがあるということであろう。
太平記には、日本の国体とは異質の「易姓革命思想」がはいっているという指摘も興味深かった。
わたしは、後醍醐天皇の蜂起が、ようやく定着しはじめた武家政治(封建体制)を公家政治(律令体制)へ引き戻す、無理筋の改革だった、という認識をもっている。
建武の中興は、成功して、長期政権になっても、倒れたときに、その時点で天皇体制が消滅する危険性をはらんでいた。
後醍醐天皇がもとめた権威と権力の一体化は、そういう、危うい構造だったのである。
幕府=権力が交代しても、天皇が、万世一系をたもつことができたのは、権力から切り離された権威だったからで、そういう認識に立つと、権威と権力の一体化をはかった後醍醐天皇の蜂起は、日本の国体に合致していなかったことになる。
建武の中興のイデオロギーは、当時、最先端の輸入学問であった朱子学の「大義名分論」だったといわれる。
そして、その五百数十年後、明治維新も、大義名分論を立てる水戸国学によって、尊皇攘夷と天皇親政がすすめられた。これもまた、権威と権力の合体で、敗戦によって、天皇が裁かれかねなかった国体の危機は、このとき、種がまかれた。
そして、現在は、天皇の地位と皇室典範が、GHQ憲法下におかれている。天皇体制が憲法という政治的要因にゆだねられることも、権威と権力のすりあわせで、建武の中興と明治維新、戦後の憲法天皇の三つが、歴史上、天皇体制の三大危機と、わたしは、考えている。
歴史の伏流へ話をもどすと、歴史の表面を流れるのが政体なら、それを下からささえているのが、国体である。
国体は、政治や外交、文化活動などに、影響をあたえつづけるエネルギーのようなもので、政治や外交には、かならず、国体が反映されていなければならない。
だが、国体は、合理で運営される政体とちがって、ことばで説明できる形やシステムとして、存在しているわけではない。
国体とは天皇である、というのは、それ以上の説明が不可能で、また、不必要だからである。
理ではなく、情緒なので、国体は、語りえないのである。
あえていうなら、わが国の歴史や伝統、文化にたいする誇りや尊敬心などの情緒が、国体で、それが、天皇に象徴されている。
太平記は、後醍醐天皇や楠木正成の御霊を慰撫するため、足利幕府が、当時の知識人に命じて書かせたもので、最終的に、北朝擁護に立つが、ストーリーは、豪華絢爛の一語につきる。
村上先生が元気にお帰りになるまで、佐藤氏の深読みをたのしみながら、太平記を勉強させてもらうつもりである。
2008年06月12日
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