2016年03月22日

 日本文明としての神道と天皇@

 ●日本は縄文文化の国家
『文明の衝突』のハンティントン教授は、宗教観や伝統的価値観にもとづいて世界を8つの文明圏に分けた。
 西欧文明、中華文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、日本文明、東方正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明である。
 八大文明論の注目すべき点は、日本文明を中華文明から切り離したところにある。
 一部の日本人がこれに反発しているのは、戦後、日本では、左翼・反日主義の歴史学会と日教組から、日本が中国や朝鮮半島から影響をうけてきたという歴史観を吹き込まれてきたからである。
 日本列島はアジアの辺境で、ユーラシア大陸の吹き溜まりにすぎないという自己卑下が歴史学会や歴史学者らの歴史観で、これに唯物史観や反皇国史観がくわわって、日本の現近代史は、ついに、自虐史観にまでゆきついた。
 南京大虐殺や従軍慰安婦の旗を振っている歴史学会が目の敵にしているのが、皇国史観と民族主義で、日本の歴史教科書からとうとう神話や大和朝廷や仁徳天皇陵の名称、現近代史から東郷平八郎ら英雄のまでが消えてしまった。

 ハンティントンの八大文明の根底にあるのが宗教で、西欧文明がキリスト教なら中華文明圏は仏教と儒教、道教の三宗教、ヒンドゥーもイスラムも文明と宗教が直結している。
 仏教と儒教、道教は、日本にも入ってきたが、国風化という日本特有の文化現象がはたらき、やがて、神道の一部に吸収されてゆく。
 日本文明の基礎は、のちに神道へ発展する自然崇拝である。
 自然崇拝は、宗教以前の情緒で、神道は、ワビ・サビや「もののあはれ」と同様、日本文化の心なのである。
 自然崇拝の起源は、縄文時代にまでさかのぼる。
 縄文時代の集落跡として知られる三内丸山遺跡(青森県)は、紀元前5000年頃のもので、紀元前3000年前後にうまれた世界四大文明(メソポタミア・エジプト・インダス・黄河)よりはるかに古い。
 三内丸山遺跡から、大型竪穴住居(10棟以上)、住居(780戸)、高床式倉庫群などのほか、祭祀に使用されたと思われる3層の大型掘立柱建物や土坑墓がみつかっている。
 縄文時代中期には、日本列島に、自然崇拝にもとづく初期的な祭祀共同体ができあがっていたのである。

 縄文時代の精霊信仰・太陽信仰が、弥生時代になって穀霊信仰や祖霊信仰をくわえ、のちに高天原神話や八百万信仰へ発展してゆき、やがて、天武天皇の代になって、伊勢神宮の昇格や大嘗祭など宮中祭祀がさだめられたが、中心となったのは祭祀だった。
 歴史学者のなかには、大嘗祭が、中国古代王朝の祭祀制度の模倣という者もいるが、大嘗祭は、縄文以来の祭祀の伝統形式であって、皇帝祭祀をもちだすのは、わが国の歴史を軽視した下司の勘ぐりというしかない。
 諸国の神社が整備され、正月や節句、祭りが行事となったのもこの時代からで、祭祀を中心に形成されてきた神道文明は、ユーラシア大陸や南アジアから横軸を移動してきたものではなく、時間軸に沿って、タテ軸に発展してきたのである。

 日本列島に固有の文明がうまれたのは、海に鎖された島国だったろう。
 縄文時代からつづく文化の純潔性が何ものにも侵されず維持されてきたのである。
 民族的にも、日本人は、弥生人と混血した縄文人の末裔で、現在の中国人や韓国人と血縁関係がないことがわかっている。
 日本人のY染色体(男性)の3割を占めるハプログループD2(縄文系)が北方民族や漢民族、東南アジアでまったくみつかっていないからである。
 独自の発展をとげた民族は、他民族にはみられない固有の文化や習俗、生活様式をもつ。
 根底にあるのが、民族の素朴な信仰心や土着宗教で、神道は、ゴッド(絶対神)を崇拝する一神教や個人の成仏をねがう仏教、天の法則を以って奇跡や栄達をもとめる道教や儒教と本質が異なる。

 神道には、教祖や聖典、御神体が存在せず、祭祀があるだけである。
 したがって、一般的にいわれる宗教ではない。
 拝礼や拍手、作法が宗教なら、日常のお辞儀や挨拶、礼儀までが宗教にくくられてしまう。
 高天原は、あくまで、神話だが、その神話をまもってきた先祖たちの真心は実史である。
 そこで、神話と実史が溶け合って、日本民族の精神性が成立した。
 現在の日本の原型をつくったのは、皇親政治をとって、強権をふるった天武天皇である。
 天武天皇は、日本の国号や天皇の称号をさだめ、伊勢神宮の昇格、諸国の神社を整備し、『日本書紀』や『古事記』の編纂を命じ、神道を確立する一方、道教や仏教を保護し、律令制定(大宝律令)を発令して、国家の基盤を固めた。

 神道は、浄明正直を唯一の徳目とする。
 浄明は祭祀、正直は神代を継承する中今(なかいま/現在)の心で、高天原という絶対境地へ近づく道筋である。
 神道が、仏教や道教をかかえこんだのは、宗教ではなく、文化の形だったからで、天地開闢の造化三神や太陽の神格である天照大神によってつくりだされる宇宙観のなかで、個人の成仏や栄達と調和したからである。
 伊勢神道では、内宮の祭神である天照大神と外宮の祭神である豊受大神(造化三神の異名)の幽契(かくれたるちぎり)によって世界の形がさだめられたとする。
 幽契は、国の弥栄や民の幸の実現で、天照大神と豊受大神のあいだで、すでに契りが交わされていたのである。
 神道の祈りは、幽契を言祝ぐ(祝詞)ことで、拝殿には、個人の願いを聞く神体は存在しない。
 祭祀は、浄明正直になって、高天原に近づく儀式で、我執を神々に祈願することではないのである。
 浄明正直によって、我執を落ちると中今があらわれて、神々の息吹がかんじられる。
 天皇が神に祈る神≠ニなるのは、祭祀によって、中今のさいわいをひらく幽契に出会うからで、このとき、天皇は、この世と幽界の境界に座す半神半人となられる。

 神社は、氏子と神職者の祭祀施設で、参詣(初詣・初宮参り・七五三など)して、参拝やお祓い(浄明正直)をうけることによって、守護神である氏神(血縁)と産土神(地縁)に接近することができる。
 神職者は、修験者ではなく、祭祀王たる天皇に仕える神官で、ここで、宮中と神社が接する。
 先祖霊や地祇に願をかけるのむ、日本人の伝統的習俗たる祭祀であって、宗教行為ではない。
 憲法20条、89条は政教分離を規定している。
 神道を宗教とすると、国体と政体の不一致が憲法によって規定されることになる。
 国体をもたない革命国家アメリカが、伝統国家の憲法をつくった結果であるが、政教分離をさだめたアメリカでも、聖書に手を置いて神に宣誓する大統領宣誓は、宗教行為ではなく、良心(道徳観)とみなされている。
 政教分離は、宗教的特権をもちこんで政治的利益をもとめる行為で、良心にもとづく信仰を排除することではない。
 神道は、自然や祖先、神話にたいする国民的情緒の歴史的集成で、これを宗教とするなら、国民道徳や愛国心、結婚式や葬式などの伝統的習俗まで宗教にくくられてしまう。
 宗教とは、自然を超越した絶対神に心をゆずりわたすことで、自然や歴史、習俗をまもってきた祭祀は、むしろ、神聖な非宗教なのである。
 政教分離の規定によって憲法第7条十号(儀式を行ふこと)から宮中祭祀を外したのであれば、思い違いもはなはだしいといわねばならない。
posted by office YM at 09:07| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする