2017年07月06日

万世一系と「女系天皇・女性宮家」C

 ●皇統の男系をまもった八人の女性天皇
 天皇政治が確立される6世紀頃まで、蘇我氏や物部氏、中臣氏、大伴氏らの豪族が天皇をしのぐほどの大きな力をもっていた。
 皇統は男系でも、のちに摂政(源平籐橘)へひきつがれる豪族政治は、女系(天皇の外戚)で、初期の大和朝廷は、女系が男系を圧倒していた時代ということができる。
 豪族たちは、競うように子女を天皇に嫁がせ、天皇家と外戚関係(女系)をむすんで勢力を拡大していったのである。
 欽明天皇(29代)の子のうち、天皇になったのは、敏達天皇(30代)と用明天皇(31代)、崇峻天皇(32代)、推古天皇(33代)の四人である。
 そのうち、敏達天皇以外、母親は、蘇我稲目の子女である。
 ちなみに、推古天皇が、敏達天皇の皇后薨去にともなって、後添えとなったのは近親婚(異母兄妹)で、敏達天皇のあいだに竹田皇子をもうけている。
 天皇との外戚関係を固め、政治の実権を握ってのしあがってきたのが、仏教戦争(丁未の乱)で物部氏を討った蘇我氏で、4代(稲目・馬子・蝦夷・入鹿)にわたって、権勢をほしいままにする。
 蘇我氏は天皇にとっても最大の難敵で、穴穂部皇子(欽明天皇の子)の殺害や崇峻天皇の暗殺、山背大兄王(聖徳太子の子)の討滅と、天皇家の生殺与奪の権を握っているかのような勢いだった。

 敏達天皇と用明天皇が相次いで疱瘡で崩御したのち、崇峻天皇が蘇我馬子のさしむけた刺客に暗殺されるという事件がおきて、欽明天皇の第三女、額田部皇女がわが国初めての女帝、推古天皇となる。
 額田部皇女が稲目の孫にあたることから、蘇我氏の後押しもあっただろう。
 だが、推古天皇は、蘇我氏の傀儡になることなく、用明天皇の子、厩戸皇子(聖徳太子)を摂政に立て「冠位十二階」や「憲法十七条」などの律令的な政策を打ち出し、天皇政治の基礎を固める。
 推古天皇は、わが身を矢面に立たせて、聖徳太子に自由に政治をやらせたのである。
 そのせいか、聖徳太子の子、山背大兄王は、蘇我入鹿に攻め滅ぼされて、子孫が絶えている。
 推古天皇を継いだのは、押坂彦人大兄皇子をへて、敏達天皇の直系の男孫にあたる舒明天皇(34代)である。
 皇統は、推古天皇を中継ぎとして、男系のまま継承されたのである。

 聖徳太子がめざした天皇中心の政治の完成には「大化の改新」まで待たねばならない。
 統治、政治の実権を握っていたのは蘇我蝦夷・入鹿親子で、依然として、蘇我氏の天下がつづいている。
 蘇我氏に推挙された舒明天皇が崩御した後、皇后が史上二番目の女帝として皇位につく。
 皇極天皇(35代)である。
 敏達天皇から押坂彦人大兄皇子、茅渟王と下った三代目で、孝徳天皇(36代)は弟にあたる。
 天智天皇(38代)・天武天皇(40代)の母でもあって、中大兄皇子と中臣鎌足らによる蘇我入鹿の暗殺、翌日の蝦夷の自殺(乙巳の変)は、皇極天皇の目の前でおきた事件である。
 蘇我氏4代の繁栄は、乙巳の変によって、一夜にして崩壊する。
 中大兄皇子はのちの天智天皇である。
 乙巳の変の直後、皇極天皇は退位し、弟が孝徳天皇、中大兄皇子が皇太子になる。

 ここで異変がおきる。
 孝徳天皇が、中大兄皇子と不和となって、翌年、憤死するのである。
 皇極天皇が重祚して斉明天皇(37代)となったのは、中大兄皇子が即位に応じなかったからである。
 中大兄皇子が即位するのは、白村江の戦い(日本・百済対唐・新羅)に大敗した後のことで、大宰府(北九州)防衛に奔走した天智天皇は、全精力を使い果たしたかのように没する。
 ここでふたたび紛争(壬申の乱)がもちあがる。
 天智天皇の弟(大海人皇子)が、天智天皇の子(大友皇子)に反旗を翻すである。
 大友皇子が後の弘文天皇(39代)で、大海人皇子が後の天武天皇(40代)である。
 反乱者である大海人皇子が勝利して、天武天皇の時代が到来する。
 ここが古代史のターニングポイントで、天武・持統朝から現在の日本の原型がつくりあげられてゆく。

 天武天皇と持統天皇(41代)、文武天皇(42代)、二人の女帝、元明天皇(43代)元正天皇(44代)の時代は、聖徳太子が掲げた天皇中心の政治を完成させた時代であった。
 持統天皇が皇位を継承した理由は、実子の草壁皇子と異母兄弟の大津皇子の政争を避けるためである。
 ところが、大津皇子に謀反の疑いがかかって、逮捕・処刑されるという事件がおきる。
 そして、大津皇子の処刑後、草壁皇子も病死する。
 持統天皇が退位しなかったのは、草壁皇子の長男が即位できる歳まで待ったのである。
 それが14歳の若さで即位した文武天皇(42代)である
 持統天皇は、天武天皇から草壁皇子、文武天皇へ男系相続を引き継ぐための中継ぎを果たしたのである。
 ところが文武天皇は短命で、長男の首皇子が幼かったため、文武天皇の母である元明天皇(43代)、姉である元正天皇(44代)が相次いで即位する。
 元明・元正の両女帝を経た後、皇統は、文武天皇の直系である首皇子のちの聖武天皇(45代)へと継承される。

 
 聖武天皇の系列が絶えると孝謙天皇(46代)と称徳天皇(48代)という女性天皇を挟み、天武天皇の系列から淳仁天皇(47代)、そして、天智天皇の系列から光仁天皇(49代)が即位して、桓武天皇(50代)にひきつがれる。
 孝謙天皇・称徳天皇は同一人物(重祚)で、天武天皇から舎人皇子、淳仁天皇へ、天智天皇から志貴皇子、光仁天皇へと皇統をうけわたす役割をはたしていたのである。
 徳川幕府の皇室封じ込め政策に反発して退位した後水尾天皇(108代)の後、皇位についたのが後水尾天皇の皇女、明正天皇(109代)で、異母弟の後光明天皇(110代)への中継ぎ役をはたしている。
 後桜町天皇(117代)もまた、桜町天皇(115代)の内親王で、後桃園天皇(118代)への中継ぎだった。
 かつて、日本に存在した女性天皇は、皇統の男系相続をまもるためで、皇統以外の男性遺伝子(Y染色体)をもった子を産み、男女を問わず、その子を天皇にしようという女系天皇とは考え方がまったく逆である。
 女性天皇は、皇統の男系継承の補佐であって、女性天皇から女系天皇という道筋はありえないのである。

posted by office YM at 12:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする