2017年07月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」@

 ●実在した欠史8代の天皇
 皇紀元年は紀元前660年である。
 神武天皇はこの年に橿原宮(かしはらのみや)で即位している。
 ところが、日本の歴史家(学会)は、神武天皇が想像上の人物にすぎないとして、その存在を否定、歴史教科書からも削除してしまった。
 実在を確証できるのが、崇神天皇(10代)以降として、欠史8代の天皇の存在すらもみとめようとしない。
 それなら、崇神天皇以前の日本はだれが治め、どんな政治体制にあったのか。
 日本の歴史家は、その素朴な疑問にいっさい答えようとしない。
 かれらは、皇国史観を否定するために歴史家になった左翼なので、古事記や日本書紀を否定すれば事足りるとして、紀元前660年については、ただ縄文後期と記して平気の平左なのである。
 紀元前が空白なのは、当時、日本は、国家形成などおぼつかない野蛮な原始時代だったというわけで、その一方、中国の春秋時代(紀元前6世紀)や伝説上の国家にすぎない箕子朝鮮(紀元前3世紀)にはそれなりの記述がある。
 中国の書物に日本という国号がでてくるのは『旧唐書』(10世紀)が最初で、そこには「小国だった日本が倭国を併合した」と書かれている。
『旧唐書』のあとに書かれた『新唐書』にこういう記述がある。
「日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居(中略)彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿コ、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀」
「日本は、いにしえの倭奴国なり。唐の都から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中に在る島である」につづいて「彦瀲(ひこなぎさ)の子の神武が立ち、天皇を号して、大和州に移って統治した。次は綏靖、次は安寧、次は懿コ、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀」と欠史8代をふくめて、13人の天皇の名前が列記されている。
 彦瀲(ひこなぎさ)は、記紀によると、山幸彦(彦火火出見尊)と豊玉姫の子で、神武天皇の父親にあたるミコト(神)である。
 神話と実史が入り混じるのは、どの建国史もそうで、古代ローマ史も、伝説と伝承、実史が渾然一体となっている。

 紀元前7世紀の日本について一言も触れない日本の歴史学会が血道を上げてきたのが「邪馬台国論争」である。
『魏志倭人伝』に記載された邪馬台国がどこにあるかという、愚にもつかない問題を大々的に論じてきたわけだが、邪馬台国も卑弥呼も蔑称で、そんなものが実在するわけはなく、記紀には一言も載っていない。
 邪馬台の台(タイ)≠ヘ日本語読み(訓)で、中国語の音はトである。
『隋書』は「邪靡堆」、『魏志』は「邪馬臺」、『後漢書』は「邪摩堆」で、読み(音)いずれもヤマトである。
 ちなみに卑弥呼の次の女王「台与」の読みも「とよ」である。
 なぜ、魏志倭人伝にかぎって「台」を「タイ」と読むのか。
 卑弥呼も、女王の位にあるものがみずから卑≠ニいう文字を使用するわけはなく、倭国の倭(背の低い・曲がった)≠ニ同様、語呂合わせの蔑称である。
 卑弥呼は日女命(ひめのみこと)のことで、正式には「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)である。
 孝霊天皇の皇女で、大和朝廷の御神体である三輪山の祭神・大物主のお告げをつたえ(鬼道)、崇神天皇をしばしば援けた。
 歴史学会が魏志倭人伝の記述を盲信して、表記どおりだと海上に出てしまう道のりを辿って邪馬台国の場所をもとめたのは、冗談でなければ、大和朝廷の存在を否定するためで、邪馬台国が実際にあったとすれば、紀元前660年の皇紀元年が消えてしまう。
 邪馬台国論争は、大和朝廷(歴史学会はヤマト政権)の存在を打ち消すためのめくらましで、日本の歴史学者は、皇国史観を否定できればなんでもいいのである。
 げんに、歴史研究者は、神武天皇の東征をお伽噺として片付け、史料として一顧だにしない。

 古事記や日本書紀に載っている「東征」は、壮大なる叙事詩で、文芸性のみならず歴史性もきわめて高い。
 しかも、そこには、邪馬台国論争を超える大きな真実が隠されている。
 一つは、出自が南九州の日向国(宮崎県)というところにある。
 フィクションならはじめから大和の地(奈良県)に中央政権があったとしたほうが都合よかったはずである。
 日向を立って、強敵とたたかう苦難の果て、大和の三輪山麓に朝廷を立てたということは、九州やその他の地域に大勢力があって、大和朝廷は、そのなかの一つにすぎなかったとみずから告白しているにひとしい。
 これは史実で、天皇の権威が確立するまで、各地で権力抗争がくり返されていたはずである。
 もう一つは、三輪山麓に拠点を設けた大和朝廷が徐々に力をつけてゆく背景に、神話もしくは宗教的な感情がはたらいていたと思われることである。
 紀元前7世紀末の神武から9代開化天皇、さらに、全国規模の政権になった崇神天皇(10代)までの一〇〇〇年近いあいだ、記紀にはいくさにかんする記述がほとんどない。
 武力衝突なくして、長期の政権を維持できたのは、神話的・宗教的な結束があったからと考えるほかない。
 欠史8代の天皇が異常に長寿なのも、そのことと無縁ではないだろう。
 天皇の崩御を隠蔽して、為政者が、その後も体制を維持したのである。
 天皇が不在でも体制を維持できたのは、天皇が祭祀王だったからで、当時の政治体制は、天皇の宗教的権威の下で、権力者による集団指導がおこなわれていたと考えられる。
 天皇が日本国全体の統治にのりだしたのは、10代崇神天皇以降である。
 崇神朝の四道将軍(北陸・東海・西海・丹波に崇神の4皇子を派遣)や景行天皇(12代)の皇子「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の九州・出雲・東国の平定などがそれで、以後、天皇は、政治の表舞台にでてこない祭祀王から政(マツリゴト)の陣頭指揮をとる覇者へとすがたを変えるのである。


posted by office YM at 07:13| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする