2017年07月27日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」A

 ●どこにもなかった邪馬台国
 邪馬台国論争は意外なところからボロをだす。
 宮内庁から、第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の箸墓古墳(大市墓)が卑弥呼の墓である可能性が高まってきたのだ。
 邪馬台国(卑弥呼)と大和朝廷(纒向/大和盆地)が地理的に一致したのである。
 古墳時代にはいって、次々と大きな古墳が築造された三輪山山麓(大和)は初期の大和朝廷が存在した地と考えられている。
 箸墓古墳は、行灯山古墳(第10代崇神天皇)、渋谷向山古墳(第12代景行天皇)と数キロ離れた山麓に並び立っている。
 放射性炭素年代測定法によると、箸墓古墳の築造年代は240〜260年だが、これは「魏志倭人伝」に記載された卑弥呼の死亡年247年頃と一致するばかりか、墓(円墳)と大きさ(径百余歩)も魏志倭人伝の記述と一致する。
 時間的にも形状も、百襲姫命の墓に治定されている箸墓古墳が卑弥呼の墓と断定しうるのである。
 崇神の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なるため、中国の文献にある邪馬台国が大和(倭)国であることは当初から明らかで、「崇神は卑弥呼の男弟」(西川寿勝/大阪教育委員会文化財保護課)「崇神は卑弥呼の後継女王台与の摂政」(水野正好/元・奈良大学学長)など邪馬台国と大和朝廷が同一という前提に立つ考古学者も少なくない。
 ちなみに、纒向遺跡の勝山古墳は卑弥呼の父の墓ではないかという説もあるが、卑弥呼が百襲姫命なら、勝山古墳は孝霊天皇の墓ということになる。
 纒向遺跡からは、同時期の建物としては国内最大級(南北19.2m・東西12.4m、床面積は約238u)の大型建物跡もみつかっている。
 3世紀前半(弥生時代末〜古墳時代初め)は卑弥呼が君臨した時期にあたることから、神殿(祭祀施設)の可能性が高い。

 邪馬台国が大和国であることは、中国の文献(旧唐書)からも明らかだ。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名」
 というのがそれで、「日本国は倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」と書かれている。
 そして、日本がどういう国かという記述がこのあとにつづく。
「其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國」
 東西南北に各数千里、西と南の外れは大海で、東と北には山脈があり、その山の向こうは、毛人(蝦夷/アイヌ)の国というのである。
 どうみても近畿で、四方を海に囲まれた島国で、四方の海には多数の小島があるとされている九州ではない。
 一方、倭国について「隋書」にこういう記載がある。
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行?祭」
 倭国には「阿蘇山」があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異として祭祀を執りおこなっているというのである。
 明らかに九州である。
 すると、「倭国」「倭奴国」と表記された九州国とは別に、遥か東方の大和に「日本国」が興ったということになる。
 記紀に描かれた「神武東征」でも、九州に在った神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)が東へと向かい、大和の地を都と定めて、神武天皇を名乗ったとある。
 かといって、邪馬台国が九州にあったことにはならない。
 卑弥呼(百襲姫命)は三輪山麓にあった大和朝廷の巫女で、神武から下って10代目の崇神天皇を援けている。
 西(九州)は倭国、東(三輪山麓)は大和国で、邪馬台国などどこにもでてこない。
 邪馬台国論争は、京都帝国大学の内藤湖南が唱えた畿内説に東京帝国大学の白鳥庫吉が猛反発して「邪馬台国九州説」を主張したのが発端だが、もともとこれは、魏志倭人伝の邪馬台(ヤマト)国をヤマタイコク≠ニ誤読したことからはじまった漫画のような話なのである。

 それでは、なぜ、カムヤマトイワレヒコノミコトは遥か東方を目指したのか。
 中国大陸からの圧力が増大したせいではないか。
 当時、中国は覇者の時代≠ナ、斉や晋、楚らが相次いで覇権を立て、やがて、群雄割拠の戦国時代へ突入してゆく。
 後漢書東夷傳に「建武中元二年(西暦57年) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」という記述がある。
「倭奴国が貢を奉じて朝賀したので、光武帝が印綬を以て賜う」とあり、このときに下された印鑑が江戸時代天明年間に発見され、昭和6年に国法となった「漢委奴国王印」である。
 このことから、九州にあった倭国は、1世紀には国際交易をおこなうだけの力をもっていたとわかる。
 隋書に「新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來」とある。
 新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来しているというのである。
 通使には朝貢という意味合いもあるので、隋は、倭国が百済や新羅の上位にある国とみとめていたことになる。
 事実、百済も新羅も、後継ぎとなる国王の長男の王子を倭国へ人質に出している。

 ところが、初期(崇神天皇以前)の大和朝廷には中国大陸の影響がほとんど見えない。
『日本書紀』に「任那」の文字があらわれるのは崇神天皇以後で、三韓征伐を指揮した神功皇后は、第14代仲哀天皇の后である。
 百済・日本連合と唐・新羅連合がたたかった白村江の戦いにいたっては38代天智天皇の時代である。
 中国と最初にかかわりをもったのは、第33代推古天皇の摂政で、遣隋使の派遣を開始した聖徳太子である。
 聖徳太子は、隋の皇帝煬帝に「日出処天子至書日没処天子無恙(日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや)」という国書を送っている。
 歴史書には煬帝が激怒したとあるが、小野妹子が、隋からの使者・裴世清をともなって帰国していることから、煬帝激怒云々は自虐史観的な創作で、もともと、日本は隋と対等の関係にあったのである。
 カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)が東を目指したのは、宗教観や文化の相が異なる大陸の影響下にある九州を見限ったからではないか。
 そして、大和(三輪山麓)の地に神道世界を樹ち立て、祭祀国家をつくったのではないか。
 紀元前660年は、歴史学者によると、毛皮をまとって、獣を追っていたとされるが、紀元前30世紀から20世紀にかけて、東北中心に「縄文都市」というべき文明(三内丸山縄文遺跡)が存在していた。
 このことから、紀元前7世紀に遷都の発想があってもなんら不思議はない。
 次回以降、紀元前7世紀がどんな時代だったか検証していこう。
posted by office YM at 22:07| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする