2017年11月16日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」23

 ●絶対権力者としての天皇の系譜
 大川周明は、古代史のヒーローとして、聖徳太子と中大兄皇子(天智天皇)の二人をあげる。
 聖徳太子は、推古天皇の摂政として、蘇我馬子と協調して政治をおこない、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど、天皇を中心とした中央集権国家体制の基礎をかためた。
 遣隋使を派遣して、国書に中国皇帝にしか使用されていなかった天子ということば(日出処の天子)を使って、日本が、隋と対等な関係にあるとしたのも聖徳太子で、これは、冊封体制からの離脱宣言だったとみてよい。
 日本は、七世紀初頭、聖徳太子によって、華夷秩序から脱して、独立国家の道を歩みはじめたのである。
 一方、中大兄皇子は、藤原鎌足とともに蘇我入鹿を暗殺、蘇我蝦夷を自害に追いこみ(乙巳の変)、稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたって絶対的権力をふるった蘇我氏を滅ぼして、天皇中心国家の根幹をつくりあげた。
 大川は、大化の改新を断行した中大兄皇子を強者と評価する一方、蘇我馬子と協調関係にあった聖徳太子にたいしては逆の評価をする。
 聖徳太子が強者になれなかったのは、蘇我の閨閥関係(外戚)にあったからだろう。
 聖徳太子の子山背大兄王が蘇我入鹿に攻められて一族が自殺に追い込まれたのは、田村皇子(舒明天皇)との皇位争いに敗れてのことで、ここで、聖徳太子の血筋は完全に絶えてしまう。

 628年、推古天皇の没後、舒明天皇が蘇我蝦夷に擁立されて即位する。
 当事、天皇の任命権まで、蘇我氏に握られていたのである。
 舒明天皇は即位13年目で崩御する。
 皇位は皇太子の中大兄皇子に継承されるはずだったが、若すぎた(16歳)ために皇后の宝皇女が皇位に就いた。
 これが第35代皇極天皇である。
 皇極天皇は中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)の生母である。
 大化の改新後、皇極天皇の弟の孝徳天皇に譲位したが、孝徳天皇が没すると重祚して斉明天皇となった。
 皇位継承権のある中大兄皇子、古人大兄皇子、山背大兄王の争いを避けるためだったと思われる。
 孝徳天皇が崩御した後も、中大兄皇子は即位しない。
 661年に斉明天皇が崩御するが、それでも、中大兄皇子は即位せず、皇太子のまま政務にあたる。
 663年、朝鮮半島の白村江にて、友好国の百済を救うため、日本軍は唐・新羅の連合軍と争うが、大敗する(白村江の戦い)。
 その後、日本は唐からの攻撃を警戒し、対馬、壱岐、筑紫などに防人を置くなどして侵攻に備えた。
 中大兄皇子が天智天皇として即位した(668年)のは、外国からの襲来に備えて、歴代の天皇が都を構えた大和から遠く離れた近江大津宮だった。
 ちなみに、天智天皇が完成させた「近江令」はのちの「大宝律令」の基礎となる法典である。
 天智天皇は、その三年後の671年、46歳で亡くなる。
 そして、その後、日本中をゆるがす権力闘争が勃発する。
 聖徳太子が基礎をつくり、大化の改新後、確立された天皇政治が、皇位継承をめぐって、大乱(壬申の乱)をひきおこすのである。

 壬申の乱は、天智天皇の弟(大海人皇子)と天武天皇の子大友皇子との争いである。
 たたかいは、草壁皇子や高市皇子、大津皇子、地方豪族を味方につけた大海人皇子の勝利に終わって、大友皇子は自害する。
 大海人皇子がのちの天武天皇である。
 皇位をめぐるこの内乱が、結果として、天皇の絶対主義を固め、天武天皇の皇親政治をうみだすことになった。
 天武天皇は「日本という国の原形をつくりあげた」といわれるほど、日本に大きな影響を与えた天皇である。
『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じ、天皇の名称や日本の国号を制定したのも天武天皇といわれる。
 神道を制度化したのも天武天皇で、各地の神を祀る祭儀を朝廷公式の儀礼へ取り込み、新嘗祭を創設した。
 天武天皇は、唐をモデルとした新たな都、藤原京を建設する。
 ソフト面は飛鳥浄御原令、ハード面は藤原京を建設することによって、天武天皇は、天皇を中心とした本格的な律令権国家を築き上げようとしたのである。
 日本史をふり返って、聖徳太子から中大兄皇子(天智天皇)、天武天皇へつながる権力者・天皇の強烈な系譜は他に例がない。
 蘇我氏を討った中大兄皇子や皇親政治の天武天皇の強権が、天皇絶対主義の土壌をつくりだして、やがて、摂関政治や権威と権力の二元論的へとすすんでゆく。
 次回は、この歴史をふまえて、日本において、なぜ皇位の簒奪が不可能だったのかを考えてみたい。
posted by office YM at 22:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする