2018年01月04日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」27

 ●稲作文化と天皇(3)
 稲作は米食という食習慣をもたらしただけではなかった。
 文化や制度、習俗なども、稲作の影響をうけ、日本という国家は「豊葦原の瑞穂の国(神意によって稲が豊かに実り、栄える国)」(古事記)というにふさわしい稲作国家となった。
 民に水田を割りあて、収穫を納税させる班田収授制(652年)が明治時代の地租改正にいたるまでの日本の租税の基軸で、武士の報酬も石高だった。
 貨幣も米本位制で、衣食住のなかで、稲作文化とかかわりをもたないものは、日本ではなにひとつない。
 平安時代には朝廷の「新嘗祭」「大嘗祭」が整えられ、民間でも、田楽という豊作祈念の歌や踊りがおこなわれるようになって、それが日本の芸能の原型となったといわれる。
 その稲作が、いつごろ、だれによって、日本にもたらされたものか、それが戦前からの歴史上の大きな問題だった。
 稲作の伝来は、稲作文化の伝来でもあって、稲作をつたえた人々と日本人の交流の足跡でもある。
 終戦直後から20年ほど前まで、稲作が朝鮮半島からつたわったという説が有力だったが、いまでは、俗説として退けられている。
 寒冷地でコメは育たず、朝鮮半島北部で稲作が定着したのは、明治時時代に日本で冷害に強い品種(農林一号)ができてからで、それまで、イネは、済州島や半島南端で細々と栽培されていただけだった。

 稲作のルーツは、中国の江西省・湖南省で、1万2000年前までの稲籾が続々と発見されている。
 もっとも、これらはすべて陸稲栽培で、水田遺構の発見は、それから6500年も下らなければならない。
 水稲栽培は、揚子江(長江)の中・下流の起源説が有力で、日本へ伝来したのは長江産のジャポニカである。
 ジャポニカが日本へ伝来したルートは4つあるといわれる。
 @揚子江下流域から山東半島を経て、朝鮮半島南部から九州北部へ
 A中国・遼東半島から朝鮮半島を南下して、九州南部へ
 B揚子江下流域から直接、九州北部(対馬暖流ルート)
 C中国・江南地域から南西諸島を経て、南九州へ(黒潮ルート)
 稲作の場合、種子蒔きから収穫まで、手の込んだプロセスや耕作技術もつたえなければならず、当然、そこには、人的交流がなければならない。
 朝鮮半島伝来ということになれば、朝鮮半島の稲作伝達者との接点がなければならないが、その形跡が一つもなく、考古学的に見ても日本の稲作のほうが明らかに古い。
 稲作が朝鮮半島からつたわったという思い込みは、ユーラシア大陸の文化がすべて朝鮮半島を経由して日本にわたったという先入観からで、まだ日本にはそういうタイプの学者が多いのである。

 稲作が文化であることは、中国の「黄河文明=麦の文化」と「揚子江文明=米の文化」の二つの文明が衝突あるいは侵略があったことから十分にうかがえる。
 漢民族の黄河文明は、乾燥した寒冷地帯に位置するので、米は育たず、麦を主食(麺や饅頭)としていた。
 一方、南に位置する越人=ベトナム系の揚子江文明は、高温多湿地帯で、米を主食としていた。
 日本につたわったジャポニカ米は、中国揚子江沿いの湖南省が発祥と言われる。
 そのことから、揚子江文明に属する人々がジャポニカ米をもって、日本列島に渡り、稲作をつたえたとわかる。
 弥生時代に日本へ水稲耕作をもたらした人々が長江人だったとすれば、かれらが弥生人で、日本本土で、縄文人と共存して、混血して日本人となったのである。
 稲作の伝来が、人的な交流なくして考えられないという根拠はそれで、黄河文明との闘争に敗れた長江文明は、縄文文化と合流することによって、日本で生きのびたのである。
 日本への移入ルートは海路で、動力のない筏でも、長江(揚子江)河口から黒潮(対馬海流)にのれば、3日から10日ほどで九州に至る(840km)。
 長江流域・北部沿岸には、紀元前三世紀以前、筏を改良した沙船という大型の船があったことから、移民目的で、はるか昔から長江の人々が日本に渡って来た可能性はおおいにある。
 縄文文明と長江文明が合流すれば四大文明を超える大文明がうまれてなんの不思議もない。
 次回は、稲作と並んで、日本の国力を飛躍的に高めた農業についてのべる。
 そこに、日本の縄文文化が世界の四大文明を超える大文明を形成する理由がひそんでいるのである。
posted by office YM at 23:20| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする