2018年01月24日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」29

 ●稲作文化と天皇(5)
 日本という国家は、米穀(稲作)とともに発展してきたといってよい。
 強国や富める国の植民地にならなかったのは、完全食品である米を自給自足できたからで、河川や平野、森林がゆたかだった日本は、食糧や資材の不足に苦しむこともなく、外国からつけいられるすきがなかった。
 天孫降臨の際、天照大神がニニギノミコトに下した三大神勅の3つめ「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅」(日本書紀)には、高天原から下った稲穂を育て、民を養いなさいという記述がある。
 現在でも皇居のなかに田んぼがあり、稲を育て、11月の新嘗祭には神前に捧げる儀式をおこなっている。
 このことからも、稲作が国家の真髄にまで浸透していることがわかる。
 そしてそれが、日本が祭祀国家にして伝統国家であることの裏づけとなっている。
 ユーラシア大陸における麦作および狩猟・牧畜は、かならずしも、絶対量が十分ではなかったのみならず、安定性や永続性をともなってもいなかった。
 なによりも、土地と民の一体感がなく、つねに、略奪の対象となった。
 土地は領土として争奪の対象となり、戦争に負けると農民は、奴隷として売買された。
 したがって、祭祀よりも闘争の論理が優先されたのは当然で、それが、市民革命のひきがねとなって、ユーラシア大陸において、伝統国家が根絶やしとなって、革命国家ばかりになった。

 日本の場合、稲作のための田圃は、灌漑をともなう土木事業で、土地と民が一体となってつくりあげたものである。
 稲作も、民の手間と水田という土木技術の合作で、民と土地を切り離して考えることができない。
 したがって、民と土地を別々に略奪したところで、なんの意味もなかった。
 日本で、武将同士のたたかいはあっても、地域や領国の総力戦がなかったのはそのためで、民は農地の一部、農地は民の一部であって、武将の権力闘争とはなんのかかわりもなかった。
 権力が農地を略奪することも支配すこともできなかったのは、民がいなければコメづくりができなかったからで、いくさに勝った覇王といえども、民から税(年貢米)を徴収するには、民が納得する大義名分が必要だった。
 それが征夷大将軍の官位で、徴税権を行使できたのは、天皇から征夷大将軍を任じられた幕府および幕藩だけだった。
 天皇は、祭祀王で、祭祀というのは、収穫祭(新嘗祭)である。
 それが祭祀国家の基本的な構造で、稲作国家である日本では、覇王ではなく、豊作を祈る祭祀王=天皇が国家の頂点に立ったのである。
 日本にも、戦国時代をあげるまでもなく、領主たちの領土争いや覇権闘争があった。
 だがそれは、天皇から征夷大将軍の任命をうけるためのいくさで、ユーラシア大陸型の絶対権力をもとめたたたかいとは区別されなければならない。
 日本のいくさが革命型ではなかったのは、天皇の下で、国家としてりっぱに成立していたからで、ベースとなっていたのは、稲作を中心とする農本主義であった。
 明治維新の西洋化によって、石油や電気、大量の鉄などが国家の必要物資となったが、それまで、日本は、国内で生産できる諸物資、伝統文化、数千年にわたってつちかってきた習俗にもとづいて、伝統国家として堂々とふるまってきた。

 第二次世界大戦で、日本は、革命国家連合に負けたが、伝統国家であることを放棄したわけではない。
 日本は、GHQによって、天皇の憲法上の地位や民主化、交戦権の放棄などについて、憲法をとおして、国家改造を強いられた。
 だが、1951年のサンフランシスコ講和条約で敗戦状態≠ェ解除されたことによって、GHQ軍令はすべて無効になった。
 国家主権がGHQにおかれている日本国憲法も廃棄され、自主憲法が制定されるべきところであった。
 ところが、憲法論議は、いまなお、9条三項の自衛隊項目の加憲など低次元なところで低迷している。
 自主憲法制定の根幹は、伝統国家と革命国家、および保守主義と民主主義の峻別にあるのは疑いがない。
 伝統国家と革命国家、そして、保守主義と民主主義、この二項対立の議論を深めておかなければ、憲法議論以前に、日本という国がどんな国だったのかがわからなくなってしまうのである。
posted by office YM at 11:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする