2018年01月29日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」30

 ●天皇政治における「勅と法」
 仏教の礼拝をめぐって蘇我馬子と物部守屋がたたかい、物部氏が滅ぼされた「丁未の乱」が天皇を奪い合う内ゲバだったことは明らかで、以後、蘇我氏が天皇側近(外戚)として絶対権力をふるった。
 その曽我氏を倒したのが中大兄皇子と中臣鎌足による大化の改新で、これが中臣氏のちの藤原氏の独裁政治につながってゆく。
 外戚関係を固めた側近勢力が絶対権力をもち、あるいは独裁政治をふるうのが天皇政治の特徴で、例外が、天武・持統朝の皇親政治だった。
 天皇政治は、大和朝廷が天皇と豪族の連合政権だったことからもわかるように、覇王型ではなく合議型で、それが祭祀国家や「国体・政体の分離」という特有の国家形態をつくりだした。
 日本は、早い時期(飛鳥時代後期)から律令制をとって、法治国家としての体裁を整え、天皇がその総覧者となった。
 それが祭祀国家の必然のなりゆきで、祭祀王が権威となり、行政官の集団が権力を掌握して、権威と権力の二元論が確立されると、そこからやがて、摂関政治がはじまるのである。
 その原型となったのが、蘇我氏らの豪族政治や藤原氏の側近政治だが、藤原鎌足やその子で摂関政治の基礎をつくった藤原不比等の死後、藤原一族の謀略事件が勃発する。
「長屋王の変」である。
 天武天皇の孫で天武の右腕だった高市皇子の子、長屋王が聖武天皇のもとで左大臣となり、藤原氏をおさえて、皇親政治をおしすすめる。
 その長屋王が、藤原一族の謀略にによって、自殺に追いこまれるのである。
 この事件は、藤原不比等の子で、聖武天皇の夫人だった光明子を天皇になれる皇后にしようとする藤原四家(南家、北家、式家、京家)の企てに端を発する。
 この事件が特異なのは、これまで、天皇の下で、権力をふるっていた側近が天皇家や皇統継承者に牙をむいたことで、そこには、権力(法)ばかりか権威(勅)までもわがものにしようという藤原一族の野望があった。
 
 発端は継嗣問題で、天皇の外戚関係をとおして、権力を握っていた藤原家に凶事がふりかかってきた。
 聖武天皇と藤原光明子との間に産まれた基王が、一年後、死亡するのである。
 基王の死によって、藤原氏は血族内の天皇候補を失った。
 しかもその年、聖武天皇のもうひとりの夫人(県犬養広刀自)に男子が誕生した。
 安積親王である。
 そこで考えられたのが、聖武天皇の後継として、藤原光明子を天皇に擁立することだった。
 この時代は、男が文武・聖武の2人にたいして、女帝が持統・元明・元正と3人おり、女性が天皇になることに違和感はなかった。
 その案に立ちはだかったのが当時の最高実力者だった長屋王だった。
 もともと、長屋王一族は、皇位継承の有力候補者で、藤原一族にとって宿命のライバルだった。
 このとき、長屋王は律令の「法」を立て、一方、藤原氏は聖武天皇に「勅」をもとめた。
 藤原氏は、法よりも勅を優先させ、いわば、天皇を政治利用する形で権力を握ろうとしたのである。
 聖武天皇は光明子を皇后 (光明皇后) として、みずから立后の旧慣を破った。
 かくして長屋王の悲劇は起こった。
 長屋王の屋敷が藤原の軍に囲まれて、長屋王は夫人、子らと自害する。
 長屋王の死後、藤原四兄弟は妹である光明皇后のもとで、藤原四家(南家、北家、式家、京家)政権を樹立する。

 長屋王の父である高市皇子は、壬申の乱のとき、天武天皇から軍の指揮権を委ねられたほどの実力者で、天武天皇亡きあと、持統女帝のもとで太政大臣となって、藤原京造営などで政治に辣腕をふるった。
 藤原不比等は、高市皇子のライバルで、高市皇子の死後、持統女帝が望んでいた軽皇子(文武天皇)の即位を実現させ、文武・元明・元正三代の天皇を支え、右大臣という最高位まで昇りつめた。
 その不比等が亡くなると、翌年、不比等に代わって、右大臣の座に着いたのが、高市皇子の子、長屋王であった。
 一方、不比等の四人の男子は、藤原四家として政界に重きを成した。
 高市皇子と不比等の対立は、世代が変わって「長屋王」対「藤原四兄弟」として受け継がれたのである。
 長屋王の変の八年後、藤原四兄弟は全員、天然痘にかかって死亡する。
 政権内では、天罰ともたたりともささやかれたという。
 次回以降、天皇をめぐる「法」と「勅」について、考えてみたい。
posted by office YM at 03:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする