2018年05月14日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」44

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(2)
 縄文時代の自然神崇拝からアニミズム(精霊信仰)やシャーマニズム(精霊交信)が派生した。
 天皇の系譜がそこにあるのは、疑いがないところで、その根本に稲作がある。
 収穫率や栄養価、保存性において、奇跡といっていいほどにすぐれた米穀という自然の恵みは、日本に、祭祀(穀霊祭や祈祷)という文化をうみださずにいなかった。
 古代は、カミとヒトが共存していた時空で、合理性のかけらもない。
 生も死もカミが支配するところで、世界が神秘のベールにつつまれていたのである。
 豊作と凶作が自然神にゆだねられていた古代において、自然神と交信できるシャーマンが、権力者以上の力をもったのは、当然で、たとえ、闘争に勝っても、神の怒りにふれて、凶作や天災に見舞われては、どんな権力者も、滅びるしかなかった。
 権力のほかに権威が生じて、支配構造が覇者(軍事力)と祭祀王(天皇)の2系統となった。
 これが天皇の国=日本の最大の特性で、権力構造が、権力(政治)と権威(文化)の二重構造になっている。
 もっとも、権威と権力は、はじめからの二元論の形式をとっていたわけではなく、長い歳月をかけて、分離していった。
 天皇が権威と権力の両方をもった時代と、臣下たる豪族の長が天皇をしのぐ力をもった時代が交錯して、それが、第10代崇神天皇の大和朝廷黎明期から聖徳太子、大化の改新、壬申の乱をへて、皇親政治の第40代天武天皇、皇親政治から藤原氏の摂関政治へきりかわる第42代文武天皇、第45代聖武天皇まで延々とつづく。
 皇親政治が終焉したのは、長屋王(天武天皇の孫)が、藤原四兄弟の謀略にかかって倒れたからだった。
 長屋王は、藤原不比等の娘で、文武天皇の夫人宮子、聖武天皇の皇后光明の皇位への接近に反対して、藤原四兄弟の恨みを買ったのである。

 支配構造が覇者(権力)と祭祀王(権威)の2系統に分離された例は世界に例がない。
 権力と権威の分離は、政治と文化、男性(武力)と女性(巫女)の分離でもあって、西洋では権力の所有物にすぎなかった女性が、日本では、支配構造の一角を占める。
 卑弥呼や壱与、第7代孝霊天皇の皇女で第10代崇神天皇を補佐したモモソヒメ(百襲姫命)、第15代応神天皇の生母で三韓征伐の神功皇后など古代日本では、女性が神秘的な力を有する権力あるいは権威として、敬われていた。
 権力が男性由来なら、天皇の権威は、女性(巫女)由来といえる。
 一神教(ユダヤ・キリスト教・イスラム教)の絶対神(ヤハウェ)は男性であるが、自然崇拝(多神教/神道)の最高神格は女性(天照大御神)である。
 天照大御神を皇祖神とするのが天皇で、伊勢神宮や賀茂神社に、巫女として奉仕される天皇の皇女(内親王)が斎王または斎皇女である。
 天皇と巫女は、もともと、密接な関係にあって、崇神天皇と卑弥呼の関係がそれにあたる。
 天皇は、巫女あるいは巫女的な力を借りて祭祀をおこなうが、天皇の地位は男系相続である。
 女性が天皇になれないのは、血統の継承ができないからである。
 女性の遺伝子はXXで、男性の遺伝子はXYである。
 女系では、Y遺伝子が介在しないので、祖先が特定できない。
 藤原不比等の娘である文武天皇の夫人宮子、聖武天皇の皇后、光明子は神武天皇のY遺伝子を引き継いでいないので、その子が皇位を継ぐと、天皇の祖が宮子や光明子の夫の系統へ移ってしまう。
 長屋王と藤原四兄弟の確執はそこにあって、皇統をまもろうとした長屋王にたいして、藤原四兄弟は、藤原天皇を望んだのである。
 長屋王の死後、藤原四兄弟は、全員、天然痘にかかって死んでしまう。
 長屋王の祟りと噂されたもので、聖武天皇も、恭仁京、難波京、紫香楽宮と遷都をくり返して、長屋王の祟りから逃れようとした。

 神武天皇が即位したとされる紀元前660年は、考古学的には、弥生時代のはじめにあたるが、遺跡も史料もないので、神話の世界である。
 神話もりっぱな歴史で、建国が神話ではない国は、近代になって建国された革命国家以外、一つもない。
 炭素年代にもとづく縄文・弥生時代の年代検証によって、弥生時代の開始が500年さかのぼって、紀元前10世紀前後ということになった。
 紀元前660年なら、すでに水田稲作がはじまり、集落が発展していたはずで、衣食住も、これまでの常識から500年進歩させてよい。
 皇国史観と時代考証が近づいてくるが、そのことは、さして重要ではない。
 歴史は、その歴史を信じてきた人々の歴史でもあるので、神話や皇国史観をうけいれつつ、そこに、合理的な歴史観をかぶせていって、はじめて、本当の歴史がみえてくる。
 注目されるのが日本書紀(崇神紀)に「はつくにしらすすめらみこと(御肇国天皇/初めて国を治めた天皇)」と記されている第10代崇神天皇である。
 日本書紀(神武紀)では、この読み呼称(始馭天下之天皇)が神武天皇にも使用されている。
 それが実史と神話の読みわけで、紀元前660年の神武天皇即位と崇神天皇による大和朝廷の全国展開(四道将軍)は、いわば、歴史の裏と表なのである。
 そこで、クローズアップされるのが、邪馬台国と大和朝廷、とりわけ、崇神天皇と卑弥呼の関係である。
 次回は、邪馬台国の都に比定する説が有力視されている奈良県三輪山近くの纏向遺跡を中心に古代国家のすがたを探っていこう。
posted by office YM at 17:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする