2018年05月30日

神道と世界最古の文明「縄文文化」46

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(4)
 前回は古代史をざっとながめていくつかのエポックを発見した。
 そのエポックをたどってゆけば、縄文晩期から弥生から古墳・飛鳥時代へといたる古代の文化(精神)史および文明(物質)史の全体像がうかびあがってくるはずである。
 列記してみよう。
 @アニミズムと神道のめばえ
 A稲作と大集落
 Bシャーマンと司祭長
 C大嘗祭の発祥
 D大和連合の形成
 E祭祀国家
 F権威と権力の二元論
 G卑弥呼の時代
 H邪馬台国と大和朝廷
 I纏向(まきむく)遺跡と前方後円墳
 宗教学者の山折哲雄は、神と仏を「見えるものと見えざるもの」に分けた。
 神は目に見えないもので、仏は目に見えるものというのである。
 神道は、自然崇拝あるいは自然のなかに神や霊魂をみるアニミズムで、わたしはこれを縄文の遺伝子≠ニ呼んでいる。
 これが見えざる神で、かつて、敬虔な日本人は、自然から見えざる神をかんじていたのである。
 縄文から継承されてきた神性はたしかにあるものの、それが形としてあらわれているかといえば、かならずしもそうではなかった。
 その無形性が神道の源流で、そこに神話や祖霊崇拝、民間信仰などがむすびついて神道の大枠がつくられた。
 神道は日本人の価値観でもあって、日本人は、唯物論ではなく、何ごとにも神性をかんじる唯心(神)論なのである。
 仏教は黄金の仏像や堂塔伽藍のきらびやかさでひとの心をつかむ唯物(仏)論で、神道と仏教が共存できたのは、仏教が有形だったのにたいして、神道が無形だったからであろう。
 神道が神社をもつ宗教へ発展したのは、仏教と対抗したからだが、めざした方向は逆で、仏教が教義を立てたのにたいして、神道は、一万年以上にわたる自然および八百万神との共存共栄にもとづいて、日本的心の基層をつくりあげた。
 天皇の定着も、神道の浸透と足並みを揃えていたと思われる。
 自然崇拝がアニミズムをはらんでいたのであれば、稲作の普及にともなって発生した豊作祈願・穀霊祭がシャーマニズムで、穀霊祭の司祭主がシャーマンとして、人々の畏敬を集めていたであろうことは想像に難くない。
 穀霊祭はのちの新嘗祭で、天皇の権威は、新嘗祭にもとめられる。
 ユーラシア大陸の国々とわが国の成り立ちのちがいは、そこにあって、国家の根幹をなしているのが、わが国の場合、権力ではなく、神威=権威だったのである。
 なんどもふれてきたように、稲作というずばぬけて高い食性をもった食糧が登場してきたため、秩序の基準が、武力の高さではなく、豊作を祈念する霊力のあらたかさに移って、それが国家の原型となった。
 それが祭祀国家=国体で、その頂点に立つのが天皇である。
 鎌倉時代以降、日本は、国体とは別に政体を有し、それが江戸幕府から明治政府にいたって、近代国家となった。
 それが国体と国家の二元論で、国体を有する日本が、世界最古の伝統国家と呼ばれる所以である。
 
 日本国家の原型は、大和朝廷で、豪族たちによる連合政権であった。
 豪族らを国家へむすびつけた集権力が祭祀で、豪族らは太刀をおき、神殿にぬかずいて朝廷への忠誠を誓った。
 その延長線上にあるのが、権威の象徴としての前方後円墳で、豪族らも天皇陵を模して、競って、前方後円墳を造成した。
 権威(国体)が権力(国家)の上に立って、国家が安定したのである。
 これらの事実は、魏志倭人伝につたえられる卑弥呼と壹與のエピソードからうかがえる。
 卑弥呼も壹與も巫女(シャーマン)で、天皇に仕えていたと思われる。
 卑弥呼の墓は奈良県纏向遺跡の箸墓という見方が有力である。
 宮内庁によると箸墓は倭迹迹日百襲媛命の墓である。
 すると、卑弥呼と倭迹迹日百襲媛命は同一人物となって「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)とある男弟と百襲媛命に援けられた崇神天皇が重なってくる。
 箸墓は日本で最初の巨大な前方後円墳(全長280メートル)で、崇神天皇陵(行燈山古墳)よりも大きい。
 第7代孝霊天皇皇女というだけでは説明のつかない大きさである。
 崇神天皇は、卑弥呼(日巫女=百襲媛命)を立てて、政をおこなったのであろう。
 卑弥呼から壹與、そして崇神天皇へ政権が移っていったのなら、邪馬台国と大和朝廷の連続性が明瞭になる。
 もともと、邪馬台は蔑意をふくんだヤマトの当て字で、元は大和である。
 現在、纒向(奈良県桜井市)が邪馬台国の最有力候補地とされている。
 放射性炭素(C14)年代測定で纒向の遺跡が「西暦135〜230年」に該当するからで、卑弥呼の活動時期と年代が重なるばかりか、一帯(大和盆地東南部の三輪山山麓)には行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)などのほか、外山茶臼山古墳やメスリ山古墳など大和朝廷とゆかりがあると思われる墳墓が並んでいる。
 次回は3世紀半ば以降、日本がどういう経緯で国のかたちをさだめていったのか、考えてみよう。
 ちなみに、この時期は「空白の4世紀」と呼ばれて、中国の史書から倭国の記述がふっつり途絶えている。
posted by office YM at 12:53| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする