2018年06月04日

神道と世界最古の文明「縄文文化」47

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(5)
 倭国が国家としての基盤を固めつつあった3世紀半ばから5世紀の初めまで中国の文献に倭国にかんする記述がなく、したがって、この時代は「空白の4世紀」と呼ばれる。
 この時期は、国家的モニュメントである前方後円墳が、全国規模でさかんにつくられた古墳時代の前半期にあたる。
 正確には、女王壹與が、晋の皇帝(武帝)に朝貢した266年から倭の五王(讃、珍、済、興、武)が中国に朝貢を再開する413年までの150年ほどで、このかん、倭国の文字が見える歴史史料は『高句麗広開土王碑の碑文』があるだけで、そこには、倭の勢力が朝鮮半島北部近くまで押し寄せて来た(391年)とある。
 高句麗好太王碑の碑文によると、新羅や百済とむすんで高句麗と戦っていた倭国は、朝鮮半島における軍事勢力として中心的な役割を果たしており、それが、倭と百済の連合軍が新羅と唐に破れる白村江の戦い(663年)までつづく。
 このことから、倭国は、当時、相当の国力を有していたことがわかる。
 3〜4世紀の天皇は、三韓征伐の神功皇后(第十四代仲哀天皇の后)、第十五代応神天皇、第十六代仁徳天皇の3人で、応神天皇の母で、武内宿禰とともに新羅や百済、高句麗を降伏させ、70年間にわたって皇太子(応神天皇)の摂政としてみずから政治をとった神功皇后および善政(「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」)を敷き、大規模な土木工事をおこなった仁徳天皇はよく知られている。
 ところが、大和朝廷の成立において、大きな役割をはたした豪族、とりわけ朝鮮半島における倭国(軍)の主軸をなしていたはずの豪族についてはあまり知れられていない。

 大和朝廷は、豪族の連合政権で、大王は、豪族連合のバランスの上に成り立っていた。
 時代はやや下るが、大伴金村が「任那4県」を百済に割譲(512年)した25年後、金村の子、盤と狭手彦が任那を救援(537年)し、さらにその25年後の562年、狭手彦が高句麗軍を破っている。
 物部氏も、盤井の乱(528年)で、物部麁鹿火が大伴金村とともに筑紫の国造盤井を討っていることからわかるとおり、古墳時代は、豪族(氏)の時代でもあった。
 大和政権は、5世紀には、大王を中心として、大和周辺を基盤とする豪族の連合体として、九州から東北地方南部に至る広い地域を支配するようになる。
 その支配体制の根幹となったのが、大王のもとに、中央貴族や地方豪族を統一する氏姓制度であった。
 氏姓(しせい)制度は「氏姓(うじ・かばね)の制」ともいい、大和朝廷が授ける官位(氏姓)によって、中央貴族や地方豪族が天皇の下に系列化されることになったばかりか、血縁者以外の被征服者や従属者も大和朝廷の構成員にくわえられるようになった。
 さらにこの氏姓制度が、世襲されるにいたって、やがて、天皇を中心とした壮大なる秩序の体系ができあがり、これが、権威(天皇)と権力(摂政・幕府)の二元論の源になってゆく。
 日本が同属国家・家族国家となった原点が、この氏姓制度で、氏の代表者である氏上(うじのかみ)は、氏人(うじびと)を率いて大和政権にくわわった。
 この過程で、しばしば行幸がおこなわれたのは前回ふれたとおりで、大王が氏上の地を訪れたのは、氏族の結束を固め、氏族を大和朝廷にとりこむ二重の効果を効果を狙ってのことだった。

 大王が、大和朝廷をまとめあげたのは、圧倒的な力をもっていたというよりも、連合体の中心軸だったからで、豪族たちは、天皇中心の力学(円環の論理)にしたがって、すすんで大王に服従して、その結果、大和朝廷という大帝国ができあがったのである。
 それが全国で5000基にのぼる前方後円墳の秘密で、豪族は、みずからの安全と発展をねがって、大和朝廷のモニュメントである前方後円墳をつくったのである。
 有力豪族には、蘇我氏(祖は武内宿禰)、物部氏(祖神は饒速日命)、中臣氏(藤原氏。天児屋命を祖とする)、大伴氏(物部氏に並ぶ名族)、息長氏(神功皇后・継体天皇をうんだ家系)、吉備氏(吉備国の名家。ヤマトタケルの母系)、葛城氏(祖は武内宿禰)のほか、平群氏、巨勢氏、阿倍氏、春日氏、上毛野氏などがいる。
 持統天皇が祖先たちの墓記(オクツキノフミ)を献上させた豪族にはほかに大三輪氏、雀部氏、石上氏、石川氏、膳部氏、紀伊氏、羽田氏、佐伯氏、采女氏、穂積氏、阿曇氏などがおり、大和朝廷が、畿内・地方の多くの豪族集団にささえられていたことがわかる。
 身分制度には、臣(おみ)と連(むらじ)があって、天皇の血筋である臣には、葛城や蘇我、出雲がおり、天皇家とは祖先がちがう連には、物部や大伴、中臣がいた。
 ところが、氏姓や臣連は、かならずしも安定的に機能せず、やがて、蘇我氏の専横から崇峻天皇の弑逆という大事件がおきる。
 天皇を中心とした身分制度は聖徳太子の冠位十二階までまたねばならない。
 次回は蘇我氏と推古天皇、聖徳太子の歴史的存在意義にふれよう。
posted by office YM at 09:23| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする