2018年06月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」49

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(7)
 大和朝廷は、豪族による連合政権で、天皇は、その豪族連合に担がれた祭祀集団の長だったと思われる。
 縄文時代から、日本には、縄文の遺伝子というべきアニミズムやシャーマニズムなどの神道的な宗教感覚が根づいており、くわえて、稲作の導入によって穀霊祭や収穫祭などの神事がはやくから習俗化されていた。
 新嘗祭の起源を稲作伝来に重ねる見解もあって、神々が人々と共存していた太古において、祭祀集団の長だった天皇の地位は、有力豪族と同等か、それ以上だったはずである。
 ここに国家二元論(「権威と権力」)の原型をみることができる。
 大和朝廷は、権威(天皇)と権力(豪族)の二元論で、有力豪族は、天皇の外戚に娘たちを送りこむことによって、権力の正統性を獲得し、一方、豪族の権力が強化されることによって皇統(万世一系)がまもられ、天皇+有力豪族の二元的な政権ができあがった。
 万世一系(男系)と外戚政治(女系)の両輪が大和朝廷の基本構造で、有力な豪族が天皇の外戚になろうとしたのは、天皇の権威を借りなければ、覇者といえどもただの戦大将で、施政権がそなわらないばかりか、油断すれば敵から寝首をかかれかねなかったからだった。
 歴史家は、天皇が豪族の一派で、覇権戦争に勝ち抜いて、大和朝廷の頂点に立ったとする。
 そうなら、大和朝廷成立前に、長期間におよぶ戦国時代がなければならないが、記紀には豪族戦争の記録がみあたらない。
 豪族の連立を巡って争いがなかったのは、大和朝廷が宗教的結束だったからで、仲介の役割をはたしたのが天皇を戴く祭祀集団だった。
 ところが、日本の歴史家は、日本という国家が国体(権威)と政体(権力)の二元論に立っている事実を見ようとしない。
 日本の歴史学会が、マルクス主義の唯物史観一辺倒だからで、左翼ならずとも、日本人の多くが皇国史観を諸悪の根源と思い込んでいる。

 豪族の連合政権だった大和朝廷が安定政権となったもう一つの理由が、世襲による権威と権力の血縁相続である。
 権威=天皇の相続が男系(万世一系)なら、権力=執権の相続が女系(天皇の外戚)で、葛城や蘇我、中臣ら有力豪族は、娘を天皇に嫁がせて、后の系列から権力を強化した。
 注意をむけるべきは、大和朝廷から平城京、平安京、さらに江戸幕府にいたるまで、日本の政権は、万世一系(男系)と外戚政治(女系)が両輪になっていて、その二元論が、摂関政治から幕府政治まで維持されてきた歴史的事実である。
 大伴や物部ら大豪族を制して、天皇の外戚関係から権力を握ったのが、武内宿禰を共通の祖とする葛城氏と蘇我氏、天児屋命(アメノコヤネ)を祖とする中臣(藤原)氏で、かれらは、みずからの血統をまもるため、天皇をまもったといえる。
 歴史上、弓削道鏡や平将門、足利義満のほかに皇位簒奪をはかった権力者がいなかったのは、権力は、単独で存立できないからで、皇位を奪えば、権威にささえられた安定的な権力を維持することができなかった。
 ここに、国体(天皇)の本質があって、日本の場合、権力者は、剣のみではなく、国体という権威の裏づけをもって、はじめて、天下に号令をかけることができた。
 軍事力で覇権を争ったユーラシア大陸や日本の戦国時代が終わりなき乱世となったのは、権威が不在となったからだった。
 権力が世俗的なパワーなら、権威は超越的な価値で、これには、文化や歴史から習俗や宗教(祭祀)までがふくまれる。
 卑弥呼の邪馬台国(ヤマトコク)を継承する大和朝廷が祭祀国家だったのはいうまでもない。
 武装集団でもあった豪族が、畿内から河内、九州にいたる広範囲にわたって大和朝廷に服従的だったのは、宗教的アイデンティティがはたらいていたからで、その象徴が前方後円墳だった。
 日本の歴史家は、エジプトのピラミッドに並ぶ前方後円墳を軽視する。
 古代人(縄文・弥生)が古墳時代に入って、とつぜん、前方後円墳をつくりはじめたようにいうのだが、巨大な前方後円墳をつくるには、計画性や高度な土木技術、組織力や政治力などの文化・文明の力が必要で、巨大前方後円墳の存在それ自体が、大和朝廷の国家的完成度や民度の高さを示している。
 そもそも、古墳時代というのは考古学の用語で、このことばを歴史書にもちいることがまちがっている。
 皇国史観をきらう日本の歴史学者は、古代の人々を未開人、歴史を考古学としてとらえるので、歴史を物語として描きだすことができない。
 現在の歴史学は、観念や史料を重んじる唯物史観やランケの実証史学にもとづいているので、物語性を度外視して、もっぱら、科学的・実証的分析に走る。
 かつて、古墳時代の代わりに、大和時代という時代区分があった。
 これは、神武天皇の即位(紀元前660年)から欠史八代、卑弥呼をへて、大和朝廷をつくりあげるまでの歴史的経過を俯瞰したもので、それなりの合理性もあった。
 採集生活をしていた古代人が、前方後円墳をつくるまでの文明人になるのにかかる歴史時間は、500年、千年単位だったと思われる。
 三内丸山遺跡の縄文都市が紀元前2000年前〜3500年前だったことを思えば、歴史学者のいう未開の古代≠ネるものは、すくなくとも、現代から遡って5000年前以内にはなかったと考えたほうがよい。
 はるか紀元前から大和時代にいたる古代史には、唯物史観や歴史実証主義がおよびもつかないゆたかな物語性があったはずで、古代史は、神話と実史が融合した一大ロマンなのである。
 次回以降、大和時代から飛鳥時代、奈良時代にわたってくり広げられてきた国体と政体のドラマをみていこう。
posted by office YM at 02:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする