2018年07月03日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」50

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(8)
 豪族(氏族)が跋扈していた倭国が、三世紀中頃から四世紀にかけて、次第に統一されていった。
 それが天皇を中心とする大和朝廷(奈良県)で、次第に勢力を広げ、やがて西は九州から、東は関東までを勢力圏内におさめてゆく。
 さらに、四世紀半ばには、朝鮮半島にまで勢いをのばして、それが白村江の戦い(663年)までつづく。
 5世紀以降、大和朝廷が大きな力をもっていたことは、仁徳天皇陵のような巨大な墳墓(前方後円墳/大阪府堺市)が数多くつくられたことからもわかる。
 大和朝廷を形成した豪族には、大伴氏や物部氏、蘇我氏、中臣氏のほか、葛城氏、平群氏、巨勢氏、膳部氏、紀氏などがいるが、大きくは、二つの系統に分けられる。
 一つは、軍事や祭祀をうけもっていた「大連」の物部氏(物部尾輿)の系統で、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中臣氏は、仏教受容問題で、物部氏とむすんで蘇我氏と対立した。
 もう一つは、財政や外交を担当していた「大臣」の蘇我氏(蘇我稲目)の系統である。
 蘇我馬子と物部守屋がたたかった「丁未の変」では、廐戸皇子(聖徳太子)や泊瀬部皇子(崇峻天皇)、竹田皇子(敏達天皇・推古天皇の子)ら蘇我氏の血を引く皇族のほか、紀氏や巨勢氏、膳部氏、葛城氏、大伴氏、安倍氏、平群氏などの有力豪族も蘇我馬子の軍にくわわった。
 神道・祭祀系の物部派と仏教・渡来系の蘇我派が睨みあっていた豪族政治において、天皇の存在は、かならずしも、磐石ではなかった。
 592年。聖徳太子19歳の折、崇峻天皇が、蘇我馬子が放った刺客、東漢直駒に弑逆される。
 豪族連合に擁立された祭祀王=天皇はけっして絶対的な存在ではなかったのである。

 飛鳥時代は、外来と土着をめぐって、文化や宗教、民族が衝突した古代史における最大の革命期であった。
 渡来人が活躍した時代でもあって、中国や朝鮮半島から、文字や仏教、儒教のほか、建築や鍛冶、織物、養蚕などの大陸文化が流れこんできた。
 外来文化は主に帰化人によって伝えられたが、東漢氏や西文氏らの渡来人や帰化人を擁していたのが蘇我氏で、当然、仏教導入にも熱心だった。
 そのため、排仏を主張する物部氏や中臣氏、忌部氏らと対立して、これがのちの「丁未の変」へつながってゆく。
 外交や宗教、文化、民族問題が混沌としていたこの時期、忽然とあらわれたのが「丁未の変」で、蘇我馬子についた聖徳太子だった。
 蘇我氏は渡来人と結びつくことで勢力を伸ばし、二人の娘を欽明天皇の妃とする(天皇の外戚)ことによって、地位を確固たるものにしていた。
 聖徳太子の父方も母方も祖母は蘇我稲目の娘で、蘇我の血を濃く受け継いでいる。
 推古天皇も、母は蘇我稲目の女(堅塩媛)で、推古天皇、聖徳太子とも蘇我氏の血族であることから、蘇我の時代にゆるぎはないかのように見えた。
 592年。推古天皇が豊浦宮で即位して、甥の廐戸皇子(聖徳太子)が推古天皇の摂政となった。
 すべて蘇我氏の思惑どおりであった。
 ところが、聖徳太子の政治は、蘇我家の期待にかなうものではなかった。
 聖徳太子の最大の功績は、蘇我氏の独断を排除して、天皇と豪族との関係を正したことである。
 それが、冠位十二階と憲法十七条である。
 冠位十二階が外からの規範的改革とすると、十七条憲法は、内からの精神的改革で、聖徳太子がもとめたのは、豪族政治からの脱皮と中央集権国家建設の基礎となる官僚政治への移行だった。
 冠位十二階によって、人材登用の道がひらかれて、蘇我独裁体制にブレーキがかかった。
 追い打ちをかけたのが十七条憲法だった。
 十七条憲法でよく知られているのが、第一条の「以和為貴。和を以って貴しとなし」と第三条の「承詔必謹。詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め」であろう。
 第一条の「和を以って貴し」はともかく、第三条の「承詔必謹」には誤解があるので、付言しておく。
 女系天皇論者で、漫画家の小林よしのりが、皇后さま82歳の誕生日の宮内記者会のご発言から、承詔必謹を読みとって、男系天皇論者を「承詔必謹なきエセ尊皇家」と罵っている。
 皇后さまは、天皇陛下の御放送にふれて、こうのべられた。
「皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされた陛下の御表明も、謹んでこれを承りました」
 小林よしのりは、このご発言をもって、皇后さまの承詔必謹を見習うべしというのだが、見当違いもはなはだしいどころか、これは、一種の危険思想である。
 十七条憲法の承詔必謹は、大和朝廷の構成員である豪族にたいして発した戒めで、天皇の神格化を前提としてはいない。
 天皇の神格化は、明治政府が、天皇を政治利用するためにあたってもちいた政治トリックで、日本史上、天皇を神(現人神)としたのは、この時期だけである。
 小林はこういう。
「皇后さまでも、承詔必謹なのだから、国民も、国民の代表者たる国会議員も承詔必謹で臨まなければならない。それを悟らせるために皇后陛下は、謹んで承ったと仰ったのだろう」
 小林は、愚かにも、戦時中の天皇トリック≠もちだして、悦に入っている。
 聖徳太子が「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す/日本書紀)」として、天皇を立てたのは、隋に、天皇が中心となった中央集権体制の完成をつたえるためだっただろう。
 第一回遣隋使が、国家の体裁をなしていないとして、倭国が外交を拒絶された反省から、聖徳太子は、第二回以降、小野妹子に託した国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す恙無きや(隋書倭国伝)」と天子、天皇を謳ったのである。
 国書をうけとった皇帝煬帝は怒ったともつたえられるが、実際は、裴世清を使者に立てて、丁重なる返書を送ってきている(日本書紀)。
 日本は、天皇を立てることによって、隋から国家としてみとめられたのである。
 ちなみに、岩倉具視使節団は、国書(天皇の委任状)をもっていかなかったため、アメリカで条約調印ができなかった。
 神格化せずとも、天皇は、歴史上、日本という国家の中心におられるのである。
posted by office YM at 13:05| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする