2018年07月16日

神道と世界最古の文明「縄文文化」52

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(10)
 日本という国家の原型をつくったのは、疑いもなく、聖徳太子である。
 第2回遣隋使「日の出づる処の天子」(607年)と第3回遣隋使「東の天皇敬みて西の皇帝に曰す」(608年)の派遣(小野妹子)で、聖徳太子は、隋の皇帝煬帝にたいして、倭国が対等の立場にあることを宣している。
 倭国が律令国家としての体裁を整えたのは、冠位十二階と17条憲法制定にによってだが、それには、第一回遣隋使外交の失敗という手痛い教訓がばねになっていた。
 第一回遣隋使派遣(600年)の記録は『隋書(東夷傳俀國傳)』にはあるが『日本書紀』にはない。
 外交関係を拒絶されたことを愧じて、記録に残さなかったのだろう。
 東夷傳俀國傳には「高祖曰 此太無義理 於是訓令改之(高祖曰く 此れ大いに義理なし 是に於て訓えて之を改めしむ)」という一文がある。国書ももたずに外交をもとめる俀國(倭国)にたいして、隋の皇帝文帝が道理から外れているので改めるよう「所司」をつうじて訓令したというのである。
 その3年後の603年。廐戸皇子(聖徳太子)30歳のとき、冠位十二階が制定された。
 翌604年 廐戸皇子が31歳の折、憲法十七条を制定する。
 そして、607年の第2回遣隋使、608年の第3回遣隋使へとつづく。
『日本外史』の頼山陽は、蘇我氏の血を色濃く受け継ぐ(父方母方とも祖母が蘇我稲目の娘)廐戸皇子にたいして批判的で、異教である仏教の移入に努めたばかりか、蘇我馬子による崇峻天皇弑逆を放置したことをきびしく糾弾(『日本政記』)している。
 ところが「日の出づる処の天子」についえは、易姓革命による中華王朝の存亡流転と対比させ、万世一系の皇統を護る日本の国体の永久不変を謳った(『日本楽府』)ものとしてたたえている。
 蘇我馬子とともに物部守屋を滅ぼした15歳の廐戸皇子が、19歳で推古天皇の摂政となって、冠位十二階と憲法十七条を定め、34歳で、国体の永久不変を「日の出づる処の天子」と謳ったわけだが、廐戸皇子のこの思想的変遷には、ある人物が深くかかわっている。

 廐戸皇子22歳の折、高句麗から僧・慧慈(えじ)が来日する。
 この慧慈が、廐戸皇子の終生の師にして友人で、皇子が著した仏教の注釈書『三経義疏(『法華経』『勝鬘経』『維摩経』)』を携えて高句麗へ帰国した(615年)のち、廐戸皇子の訃報にふれて、翌年の同じ日に浄土で廐戸皇子と会うことを誓約して、623年の皇子の命日に、高句麗で没したという。
 隋と高句麗は、当時(598年〜614年)交戦中で、スパイ僧でもあった慧慈は、当然ながら、隋の事情につうじていた。
 廐戸皇子は、慧慈から、隋が仏教を厚く保護していること、長安には寺院が多くあって、仏教文化が花開いていることなどを教えられた。
 とりわけ皇子の関心をひいたのが隋の国家体制だった。
 中央集権国家が完成しており、官僚の規律として、儒教が重んじられていることなどを知ったが、なによりも貴重な知恵は、国家には、だれもが平伏する指導者=権威が必要とするということだった。
 慧慈の知恵を借りて、廐戸皇子は、冠位十二階と憲法十七条を制定したのち小野妹子に「日の出づる処の天子」「東の天皇敬みて西の皇帝に曰す」の国書ををもたせて隋に送り、隋の煬帝は、小野妹子の帰国に際して、裴世清を使節として日本に送った。
 慧慈がいうとおり、天皇の存在を宣することによって、煬帝は、倭国を国家としてみとめたのである。
 裴世清がもってきた返書が『日本書紀』に残っている。
「(略)倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う」
 天皇の呼称は、第3回遣隋使の国書にもちいられたことからはじまったいうのが定説で、隋の煬帝も、返書に倭皇ということばをもちいている。
 百余国(漢書地理志)あるいは三十余国(魏志倭人伝)に分裂していた倭国が稲作伝来以来の祭祀王(大王)を立てて大和朝廷を統一させ、隋と外交関係をむすぶにあたって、天皇を立てたというのが天皇の権威の歴史的推移であろう。
 天皇が神になったのは、8世紀の古事記・日本書紀以降、江戸末期における復古神道以降で、天皇は、もともと、国家の権威だったのである。
 
 したがって、33代推古天皇以前は、すべて大王で、10代崇神天皇以前の欠史八代は、その時期に伝来した稲作の収穫を祈念し、寿ぐ大和の地における祭祀王だったのではないか。
 天皇をつくったのは、慧慈の知恵を借りた聖徳太子で、蘇我氏の出自でありながら、蘇我王国ではなく、冠位十二階と憲法十七条にもとづいた官僚国家をめざした。
 その思想が、やがて大化の改新へつながってゆくが、その前に、聖徳太子がおこなった偉業をもう一つあげておかなければならない。
 仏教と神道、儒教の仕分けである。
 聖徳太子は、仏教を宗教、神道を政治、儒教を道徳に分けて、これらの一元化を避けた。
 仏教と神道、儒教のうち、いずれが優越しているか、絶対的かといういうのが一元論で、それが、明治の神国思想や廃仏毀釈というヒステリーにつながったのはいうまでもない。
 仏教と神道、儒教の共存は、和の精神ともいえるが、日本の固有的な考え方である『棲み分け理論(今西錦司)』でもあって、一元論の西洋や中華思想にはみられない。
 次回は、天皇が神になっていった歴史的経緯をふり返ってみよう。
posted by office YM at 13:47| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする