2018年08月05日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」55

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(13)
 神道がいつごろから宗教の形態をとったのか、正確にはわかっていない。
 神道という文字の初見は『日本書紀』の用明天皇紀で、そこに「天皇、仏法を信けたまひ、神道を尊びたまふ」(6世紀末)とある。
 神道が表舞台にでてきたのは天武・持統朝の「律令祭祀制(7世紀末〜8世紀初頭)」からで、新嘗祭や朝廷から全国官社へ幣帛が下される「幣帛班給制度」もこのときからはじまった。
 伊勢神宮の整備や斎宮制度(未婚の皇女または王女が伊勢神宮の祭神=天照大御神に仕える)を整えたのも天武天皇だが、大宝律令など、当時の律令制度にかんする歴史的史料は残っているものの、神道の発生や実態を示す記述や記録はほとんど存在しない。
「葦原の 瑞穂の国は神ながら 言挙げせぬ国(柿本人麻呂)」だからで、日本人が神道を信仰してきたのは、神道の原点たる高天原が日本民族の魂の故郷だからである。
 神道に経典や教義、戒律がなく、キリスト経やイスラム教のような絶対神がいないのは、神格にあたるのが、非人格の高天原だからである。
 神道は、啓示宗教とちがい、神のことばや人間理性にもとづかない自然宗教(崇拝)で、神にあたるのが、人格神ではなく、言挙げをしない高天原という聖地なのである。
 そこから、神話や八百万の神々、ミコト(尊)や英雄、巫女や神官、日本人の祖先にあたる氏子などがうまれて、日本開闢の物語が展開される。
 中心になるのが天皇で、日本人は、どこかからやってきたのではなく、天孫神話を共同幻想とする民族で、高天原から降りてきたのである。
 これを事実と反するというのは、大馬鹿者で、民族もヒトも、神話や幻想を共有して、はじめて、万物の霊長たりうるである。
 わたしたちが、孤独な個人ではなく、一人ひとり、日本民族の同胞たりえているのは、天皇が、わたしたちが共有する神話や歴史世界の中心におられるからである。
 といっても、天皇は、日本民族の象徴で、個人崇拝の対象ではない。
 天皇を個人崇拝(現人神)の対象としたのは、軍人勅諭(1882年)と戦陣訓(1941年)だが、これについては、次回に詳説することにして、今回は、文化概念だった神道が宗教へ、文化的存在だった天皇が現人神へと仕立てられていったプロセスをみてゆこう。

 日本土着の素朴な信仰心は、縄文時代に、アニミズム(自然崇拝)やシャマニズム(神との交流)、祖霊崇拝などと混交して、おそらく、弥生時代になってから、高天原神道(神話)となって、祭祀の儀式にとりいれられていった。
 神道の参拝は、何事も念じない。
 拝礼して、高天原の理想(幽契=天照大神と豊受大神とがとり結んだ約束)をうけとめるだけである。
 神社あるいは祭祀は、そのための祈りの場(神籬=ひもろび)で、高天原につうじるこの世の異空間である。
 高天原とこの世は、神社や鎮守の森でつながっている。
 なにごとの 在しますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
 伊勢神宮に参った西行法師のうたである。
 高天原につうじるひもろびだからこそ、伊勢神宮を訪れる日本人は魂をゆさぶられるのである。
 降る雪や 静寂厳 このやしろ 高天原へ 白き神籬(山本峯章/2016年)
 なんの装飾も華美さもない、簡素なたたずまいの神社に、これほど降る雪が似合うのは、高天原につながっているからなのである。

 高天原は、万物の産み出る処で、一切をはらみつつ、一切をもたない、知慮分別を超えた、空無の聖空間である。
 その摩訶不思議を崇め、畏れるのが神道の精髄で、日本人は、高天原という絶対無比を、古来より、唯一の信仰対象としてきた。
 神道の神格は、あくまで、高天原だが、高天原は、万物の有である一方、無一物の無で、そこに、日本精神の根本原理がある。
 日本文化の特性の一つに、無と空がある。
 親鸞の無上仏から無心の善や美、般若心経の色即是空と空即是色、鈴木大拙ら禅宗の空は、西洋の虚無(ニヒリズム)とちがって、何かを産みだす力の源泉である。
 高天原の思想をうけついでいるのである。
 高天原神道は、近世・近代になって、三神を創造主とする平田(篤胤)神道や祝詞(神社)神道、廃仏毀釈をうんだ国家神道などへ枝分かれしていった。
 古事記と日本書紀にも、造化三神による天地創造の神話がある。
 けれども、天地創造したあと、すがたを消して、二度とあらわれない。
 造化三神は、高天原そのもので、この世の神ではなかったからである。
 天地創造は、無の高天原から有の葦原中つ国(この世)がつくりだされた神の御所為で、西洋の天地創造とは、根本構造が異なる。
 近代精神においても、有を生むのは、無である。
 目に見える物質(有)と目に見えないエネルギー(無)は、不即不離の関係にあり、万有引力や物理の法則、自然現象をつくりだす原理、生物を生育させる力も、目に見ることができない無の力である。
 本居宣長は、無や空の力を産巣日(ムスビ)といい、ムスビの力によって生成される一切を「神の御所為(ミシワザ)」とよんだ。
 そして、理屈を並べ、賢しらに説明しようとする作為を漢意(カラゴコロ)として排した。
 それが、古事記から再構築された近代神道=高天原神道である。
 神道を原始信仰という学者がいるが、けっして、そうではない。
 むしろ、「汝はわれのほかを神としてはならない」というモーゼの十戒に比べて、はるかに高い普遍性をもっている。
 次回は、高天原信仰と天皇のありようを根本的にゆるがした平田神道をみていこう。
posted by office YM at 23:48| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする