2018年09月21日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」61

 ●民主主義と権力主義(4)
 昭和54年、旧大東塾の影山正治は「一死似て元号法制化の実現を熱祷しまつる」とする遺書を残して割腹後、散弾銃により自決した。
 元号法が可決されたのはその直後(第87回国会)のことだった。
 日本において、元号は、かくのごとく思い意味をもっている。
 一人の天皇について一つの元号に限る「一世一元」によって、天皇と元号が一体化して、天皇への親近感と日本特有のアイデンティティ(文化)がつくりだされる。
 西暦645年の「大化」から西暦1989年の「平成」まで延べ1344年間、247の元号が重ねられてきたが、そのかん、元号にまつわる混乱は皆無だった。
 それだけ、元号は、日本人に深くなじんできたといえる。
 元号は天皇がおきめになるもので、明治憲法下でも、元号は、勅定=天皇の決定事項と明記されていた。
 その公表は、法的効力を持つ詔書で、明治憲法下における改元は、元首たる天皇の権威を示す一大イベントだった。
 ところが安倍政権は、元号の政府決定どころか、元号の事前公表までを計画している。
 さらに、パスポートや運転免許証、公的文書などへの西暦表記を関係省庁へ通達したという。
 戦後、GHQ命令によって、天皇の法的効力(勅定・詔書)は失われた。
 元号も法的根拠を失ったが、政府は歴史的慣習としてこれを存続させてきた。
 そして、昭和54年の元号法成立で、元号は、よみがえった。
 ところが、同法では「元号は、政令で定める」とされている。
 政令は、内閣による命令なので、元号を決めるのは天皇ではなく、内閣総理大臣ということになる。
 日本は独立国なので、天皇の法的効力(勅定・詔書)を復活させてよかったはずだが、どういう力がはたらいたのか、GHQ意向がそのまま残った。
 天皇ではなく、首相が元号をきめるのなら、元号の決定が天皇の権威を示すイベントとなりえないのではないか。
 元号制度をとる国は、世界で日本が唯一で、天皇の権威を示すものとなっている以上、新元号は、新天皇(皇太子)におきめいただく配慮がはたらいてしかるべきではなかったか。

 1979年(昭和54年)に元号法が成立してから40年近くが過ぎた。
 いまにいたって、元号を廃止する理由も根拠も見当たらない。
 にもかかわらず、安倍首相は、なぜ、パスポートや運転免許証、公的文書などへの西暦表記を関係省庁へ通達したのか。
 その謎を解くカギは、じつは、安倍首相の「9条加憲」にある。
 自衛隊を憲法で明文化する安倍首相の「9条加憲」は、護憲派ばかりか改憲派や中道、無党派層のいずれの層からもそっぽをむかれている。
 憲法9条の1項、2項をそのままにして、3項を追加して、そこに自衛隊の合憲化を書き込むというアイデアは、果たして可能であろうか。
 賛成反対以前に、論理的矛盾につきあたって、だれだって、お手上げである。
 このアイデアを名案として歓迎するムキが一つだけある。
 アメリカである。
「われわれ(アメリカ)がつくった憲法をまもって、わが国(アメリカ)との集団的自衛権を保持せよ」とアメリカから迫られた場合、日本は、論理的矛盾はさておき、9条に3項をくわえて、自衛隊の合憲を謳うしかない。
 これが、安倍首相の「9条加憲」の深層構造だったのである。
 アメリカは、9条の改正を望んではいない。
 事実、日米構造協議や年次改革要望書で、あれほど、露骨な内政干渉をしておきながら、アメリカは、集団的自衛権の妨害となっている憲法9条の改正にいちども言及したことがない。
 アメリカ人の大雑把な思考なら、1項、2項をそのままにして、3項で自衛隊を合憲化する論理的矛盾を意に介さない。
 どっちみち、日本を植民地のような国と思っている国なので、9条がどんな矛盾をひきおこそうが知ったこっちゃないのである。
 日本は、GHQが撤退して70年近くたっているのに、いまもって、憲法も天皇条項もそのGHQの金縛りになっているような国である。
 独立国家としての誇りや自主性をまったくもちあわせていないのである。
 国家としての誇りが元号で、これを新天皇の勅定とすることで、アメリカの呪縛をきっぱり断つことができるが、安倍首相にその気はさらさらない。
 安倍首相が、国家の誇りをもたない、アメリカべったりの拝米主義者だったのなら「9条加憲」から、パスポートや運転免許証、公的文書などの西暦表記や元号の政府決定・事前公表がうなずける。
 安倍首相は、日本の政治を、アメリカの視点に立って、おこなっているのである。
 アメリカにとって、元号はなんの意味もないどころか、西暦との二重表記はわずらわしいだけである。
 日本人のなかにもにも、西暦と元号の併記は面倒というひとがいるが、西暦(キリスト教暦)の使用は、あくまで、国際的な便宜のためで、西暦に660を足すと皇紀(2678年)になる。
 さらに問題なのは、安倍首相が、新元号を事前に公表しようとしていることである。
 今上天皇に元号を冠して(おくりな/諡・諡号)お呼びするのが非礼であるように、次期天皇の元号を前もって、宣するすることはゆるされない。
 ところが、安倍首相は、新元号発足の数カ月前に新元号を公表する腹づもりで、そうなれば、今上天皇による新元号の勅定という、儀礼上、辻褄のあわないことになる。
 安倍首相は、不便性を口にするが、それでは、伝統をもたない軽薄なヤンキーとかわるところがない。
 安倍首相が、伝統国家日本の首相ではなく、革命国家アメリカの使い走りというなら、われわれは、ちがう観点から、安倍首相を批判しなくてはならなくなるだろう。
 次回は、このテーマについて、議論を深めよう。
posted by office YM at 12:56| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする