2018年10月21日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」66

 ●自主憲法制定と日米地位協定(3)
 天皇条項を中心に、自主憲法制定の基本ラインをのべておこう。
 といっても、これは、憲法改正案でも、自主憲法案でもない。
 あるべき憲法のすがたをのべただけのもので、わたしなりの憲法論である。
 憲法とはなにか、はたしてそれは必要なのか、必要ならどんな形が望ましいのか。
 大所高所に立って、憲法をながめて、思うところをのべてみよう。
 日本国憲法が虚構≠ナあることにだれも気がついていないように思える。
 第一条にこうある。
 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
 この文章が、合理的でも民主主義的でもないことは、冷静に一読すればすぐわかる。
 天皇が日本国の象徴であるという部分はそのとおりである。
 これは、憲法の枠内の話ではなく、摂関政治や院政、武家政治において天皇は、歴史上、象徴であって、権力ににらみをきかせる権威であった。
 GHQがウェストミンスター憲章(1931年)から借りてくるはるか以前から、日本では、天皇が、国家の象徴だったのである。
 その第一条も、「日本国民統合の象徴」というあたりから話があやしくなってくる。
 国民統合というのは、政治や制度、法の成果であって、直接、天皇にむすびつくものではない。
 そして、同条は、天皇の地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく、とむすばれる。
 総意にもとづくというのは、民主主義の原理に反する。
 民主主義の原則は多数決で、多数派が、一つの政治意志としてあつかわれはするものの、多数決もとらず、一概に、総意というのでは、全体主義である。
 主権の存する日本国民というのも、ありうる話ではない。
 主権(君主権/ソブリンティ)は、なにものも侵すことのできない絶対的な権力だが、法に縛られている一国民がそんな大きな権力をもてるはずはない。
 国民主権というのは壮大なるまやかしだったのである。
 日本国民が、一人ひとりの国民をさすのか、国民全体をさすのかも、不明である。
 一人ひとりの国民は、主権という絶対権力をもつことができない。
 したがって、ここでは、国民全体ということになるだろう。
 国民全体とは、どんな実体か。
 国民全体がもつ主権とはいったいなにか。
 まったくわからないが、それも当然で、日本国憲法は、ユダヤの思想家、社会契約論のジャン・J・ルソーが唱えた「主権委譲説」のコピーなのである。
 ルソーは、一人ひとりの国民を国民全体に一般化して、国家に与えられていた主権を、その国民全体にあずけた。
 こうして、国家にあった主権が、ルソーによって、国民の側へ移された。
 ここでいう国民は、一人ひとりの国民ではない、国家とわたりあう、総体としての国民である。
 国民の総体は、国民が一億人いれば一億人全員なので、数が多すぎて、統一的な主権を行使することができない。
 そこで、代理人(為政者)がその主権をあずかって、その権利を行使する。
 これが、ルソーの革命理論で、フランス革命もロシア革命も、その方法がとられた。

 日本国憲法第一条は、ルソーをかじったニューディーラーが、革命家気取りで書き上げたものである。
 だが、国民主権をひきうける肝心な為政者がだれなのか、書かれていない。
 日本国かGHQか、そのいずれかでならなくてはならない。
 国民主権をあずかる為政者が、日本国ではなく、GHQだったことは、日本に主権(国家防衛権や国家緊急法)がなく、その一方、98条(「憲法の最高法規性」)および99条(「天皇・摂政・公務員の憲法尊重擁護義務」)の宣告者がGHQであることからも明らかである。
 日本国憲法は、占領基本法で、主人は、GHQ(アメリカ)だったのである。
 日本国憲法の条文は、主語(主格)が巧妙に隠されている。
 第11条(「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」)
 だれが国民に基本的人権をあたえるのか?
 憲法の条文というならオカルトだが、そうでなければ、日本国という国家でなければならない。
 当初、GHQであったろうが、GHQは67年前、日本から撤退している。
 国民の基本的人権をまもってきたのが、日本という国家でないというのなら、日本は、これまで67年間、主人のいない憲法をまもってきたことになる。
 主人が不在の憲法というのは、条文そのものが主人となるような憲法である。
 憲法11条を読み直してみると、なるほど、預言かオカルトで、条文にすぎないものが、国民を組み従えている。
 国民に基本的人権を与えるのは、国家であって、憲法の条文が、国民の基本的人権をまもるわけではない。
 ところが、現行憲法では、主権者が日本国であると一言も書かれていない。
 日本国憲法から日本という国家が脱落しているのである。
 その結果、神の預言のように、条文そのものが、国民の主人になりおおせている。
 新憲法制定の必要があるのは、現行憲法がオカルトに堕しているからで、新憲法においては、国家主権と、主権にともなう責任と義務が、明確に謳われていなければならない。
 次回は、憲法の神話性へと話を転じよう。
posted by office YM at 10:29| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする