2018年11月04日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」68

 ●天皇と憲法(1)
 自民党の改憲案に天皇元首論がある。
 危険な思想で、文化概念である天皇を政体概念である憲法で規定すれば、ヨーロッパ的な王政(キングダム)になってしまい、歴史の権威としての地位が失われる。
 現在、天皇がエリザベス女王をしのぐ権威を有するのは、皇室が2千年以上の歴史をもっているからである。  
 歴史や伝統、文化が人々の畏敬の対象となるのは、永遠性にもとづいているからである。
 一方、法や権力、政治は、一過性の産物にすぎない。
 一過性の産物に権威がそなわるわけはない。
 ヨーロッパで「王権神授説」がとられたのは、永遠なる神をもちださなければ、王位に権威がそなわらなかったからだった。
 日本の場合、天皇は、神格をもった存在で、法や政治を超越していた。
 天皇が法制上の存在であったら、その地位が、政変によってゆらいだろう。
 日本は、権力者による時代の変遷を幾たびも重ねてきた。
 だが、関が原の合戦で、豊臣方から徳川家康に政権が移っても、天皇の地位は磐石で、正親町天皇から後陽成天皇まで、泰然と、幕府をささえつづけた。
 天皇が法や政治、制度に縛られないところにおられたからである。

 世界における天皇の位置づけは元首である。
 国内においても、天皇は、事実上の元首である。
 天皇の国事行為(内閣総理大臣の任命や法律の公布、国会の召集など)には元首として十分の重みがある。
 だからといって、憲法で、天皇元首を謳うべきかといえば、それは否である。
 憲法で天皇元首を謳うと、天皇の権威が、法の下のものとなってしまうからである。
 世界は、法や政治に下にあるものを、権威とみとめない。
 法や政治に下にあるものは、権威ではなく、権力なのである。
 権力者は、投票によって、一夜にして、誕生するだろう。
 ところが、権威は、千年の年月を必要とする。
 諸外国が、天皇を元首とみるのは、歴史上の権威だからで、歴史は、政体をこえた文化の範疇にある。
 それが国体で、政治や法は、歴史や伝統、民族の習俗や個人の領域に立ち入ることができない。
 その政治や法、政体の頂点にあるのが憲法である。
 政治家は、政体における権力なので、憲法に縛られる。
 一般法も憲法下にある。
 一般法に縛られる国民も、憲法から自由たりえない。
 一般論として、国家も憲法の下にあるという議論がある。
 政体としての国家は、たしかにそのとおりで、国会や政府、行政や公的機関は、憲法の下にある。
 だが、歴史や伝統、文化は、国体という文化概念のなかにあるので、憲法の干渉をうけない。
 その最たる存在が天皇で、国体たる天皇は、歴史的概念にして文化的存在である。
 天皇は、憲法からも権力からも切り離されている。
 政体から切り離されているからこそ、政治にまつわる天皇の国事行為が権威をもつのであって、天皇が政体の一部であったら、権威が権力に正統性をさずける国事行為は成立しない。

 明治憲法下において、天皇は、元首にまつりあげられた。
 明治政府は、国民の敬慕が篤い天皇を元首に立て、強大な権力をつくろうとしたのである。
 明治憲法のモデルはドイツ帝国憲法である。
 ビスマルク首相の強いリーダーシップによってフランスとの戦争(普仏戦争)に勝利したプロイセン王国は、ドイツ帝国の栄光であった。
 国家統一に必要なのは、鉄(兵器)と血(兵士)というビスマルクの鉄血演説に強い感銘を受けたのが、大久保利通や木戸孝允、伊藤博文だった。
 岩倉具視からドイツ帝国憲法の調査を命じられたのがその伊藤博文である。
 大久保が着目したのは、フランスの民権思想でも、イギリスの議会主義でもなく、ドイツの王権主義だった。
 プロイセンの絶対王政とビスマルクの富国強兵を合体させれば、強力な帝国主義国家が誕生する。
 明治政府が、憲法制定後、軍事国家をめざしたのは、ドイツ帝国を範にしていたからだった。
 このとき、日本は、国体と文化を喪った。
 それが帝国主義と近代化(ヨーロッパ化)だった。
 富国強兵と日清・日露戦争の勝利は、日本を世界の4大強国の一つにもちあげたが、1945年の敗戦によって、日本は、一転して、国体の危機に瀕することとなった。
 天皇は、マッカーサーと会見して、みずから戦争責任を宣し、国民の救済をもとめた。
 マッカーサーは感銘をうけた。
 そして、国体がまもられた。
 神風が吹いたのである。
 天皇は、戦後、権力の座から文化の座へお還りになったのである。
 次回以降も天皇と憲法について論をすすめよう。
posted by office YM at 21:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする