2018年12月20日

「天皇の地位」@

 国体・神道・祭祀
「天皇の地位」@
 歴史上、天皇が神だったことはなかった。
 天武・持統朝から奈良前期の皇親政治において天皇は絶大な権力を誇った。
 天皇が神格化されもした。
 だが、神ではなかった。
 神格化と神であることは分けて考えておかなくてはならない。
 神のような存在と神とは別物なのである。
 現人神思想は、古代や中世にはなかった。
 天皇が神そのものになったのは、近世の明治維新においてで、歴史の例外といってよい。
 それまで、天皇は、祭祀王で、政治権力をもっていなかった。
 それどころか、江戸時代は、公家諸法度にがんじがらめに縛られていた。
 ところが、維新後、近代天皇制のもとで、政治大権、軍事大権、祭祀大権を一手に掌握する現人神となった。
 この天皇大権は、大日本帝国憲法下において、国務大臣らが輔弼責任をもつので、天皇の絶対権力が、権力者によって、恒常的に、政治利用されることになった。
 現人神が天皇大権をもつことによって、明治維新という怪物的な時代背景ができあがったのである。
 現人神という観念は、記紀や万葉集などの現神や現御神(あきつかみ)とは異なるもので、祭祀王という古代、縄文時代からの宗教観や伝統的な価値観をひきついだものではない。
 そもそも、日本には、シャーマンとしての巫女や宗教儀礼を主催する祭祀王はいても、宗教的な絶対者はいなかった。
 ヨーロッパの王のような政治的絶対者もいなかった。
 王政復古というが、日本には、本格的な王政の時代があったわけではない。
 天皇の絶対権力には、歴史的な必然性がなかったのである。

 それでは、この天皇大権は、どこからきたものであろうか。
 大日本帝国憲法が、ドイツ(プロイセン)憲法を手本にしたことはよく知られている。
 フリードリヒ大王以来、君主権がつよかったプロイセン憲法はヨーロッパの絶対王政をひきついでいる。
 帝国憲法は、第1条で天皇主権を定めたほか、統帥大権や外交大権、非常大権などの広範な天皇の大権を謳っている。
 プロイセン憲法と帝国憲法は双生児なのである。
 ヨーロッパの絶対王政は、王権神授説で、一神教である。
 一神教では、一元論の原理がはたらくので、かならず、闘争になる。
 イギリス革命(ピューリタン革命・名誉革命)では、プロテスタントとカトリックなどが衝突して、国王チャールズ1世が処刑された。
 イギリス革命は、王政復古したものの、市民革命で、いちど歴史が断絶しているのである。
 明治維新もまた、西洋化という革命で、このとき、日本の歴史が断ち切られた。
 西郷隆盛が西南戦争で叛旗を翻したのは、日本の伝統をまもろうとしたのである。
 旧武士階級が明治政府にたいしておこした「士族の反乱」も、国体をまもる戦いだった。
 われわれは、明治維新が近代化を実現した歴史の扉のように思っている。
 だが、それは誤解で、開国や近代化は、徳川幕府のもとでおこなわれるべきだったかもしれない。
 それが、日本の国体に合ったすがたで、倒幕から大政奉還、王政復古そして戊辰戦争、鹿鳴館へとつづくみちは、西洋の革命の道筋であった。
 幕末の騒乱から開国、維新まで、日本は、ヒステリー状態にあった。
 尊皇攘夷が西洋化へ180度転換したのもそのためで、日本は、国体という国家の土台を見失っていた。
 江戸城桜田門外の変で、大老井伊直弼が暗殺された。
 井伊が勅許をえずに日米修好通商条約に調印したことにたいして、尊王攘夷派の水戸・薩摩の脱藩浪士らが反発したものだが、条約交渉は万全で、井伊の判断が正しかった可能性が高い。
 だが、勢いにのる討幕派の前に、幕臣側に勝ち目はなかった。
 会津戦争に際して、会津藩が組織した白虎隊の悲劇も、幕府軍の残虐非道な行状も、和を重んじる日本民族の本来のものではなかった。
 当時、吹き荒れていたのは、革命思想で、国体は、忘れられていた。
 西洋化と帝国主義が明治維新の成果で、日清・日露戦争と大陸進攻が国是となって、日本は、世界の強国へのしあがった。
 その帰結が、前大戦の敗戦と国体の危機だった。
 次回以降も、国体と神道、祭祀をめぐる議論を展開していこう。
posted by office YM at 12:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする