2019年01月04日

「天皇の地位」B

 国体・神道・祭祀
「天皇の地位」B
 秋篠宮殿下のご発言が、3つの意味合いで、大きな波紋を呼んだ。
 1つは、皇位継承にともなう大嘗祭の公費支出について疑問を示されたことである。
「宗教色のつよいもので、国費で賄うことが適当かどうか」「わたしはやはり内廷会計でおこなうべきだと思っています」「身の丈にあった儀式にすれば」などの一連のご発言がそれである。
 秋篠宮殿下のご発言が皇室を敬愛する多くの日本人とりわけ保守系の心胆を寒からしめたのは、大嘗祭などの宮中祭祀を矮小化して、天皇家の私事としたからである。
 宮中祭祀は、天皇家の私事ではなく、国民国家とりわけ国体に付属するもので、平成の大嘗祭にも、公費(宮廷費)が充てられて、憲法上の疑義を生じることはなかった。
 新天皇が五穀豊穣を祈る大嘗祭は、農耕民族である日本人にとって、重大な儀式で、伝統国家の国家的祭祀として、すでに、国民的合意をえている。
 宮中祭祀を皇室の私事とするのは、独善で、杓子定規な憲法解釈にもとづくものだろう。
 昭和22年、GHQの神道指令によって、皇室祭祀令が廃止された。
 神道指令は、52年講和条約発効とともに失効したが、これが日本国憲法にひきつがれて、現在に残っている。
 左翼や憲法学者が宮中祭祀を「天皇の私的儀式」と解釈するようになったのは、GHQが日本に滞在した7年間のあいだにおきた出来事で、これを数千年の神道祭祀の伝統に比することはできない。
 もともと、大嘗祭は、古来、皇位継承に伴う大切な伝統的儀式であり続けてきたという揺るぎない事実がある。
 戦後、新憲法下のもとで、宮中祭祀が天皇家の私事としておこなわれるようになったが、宮中祭祀は、かつての皇室祭祀令にもとづいておこなわれ、予算も皇室の内廷費によって処理されている。
 数千年の歴史は継承されているのである。
 政府は、憲法それ自体が皇位の世襲継承を要請しているかぎり、その継承にともなう伝統儀式の執行には公的責任を負うという判断に立つ。
 その立場から前回も公費を支出し、今回もそれを踏襲しようというのである。
 秋篠宮殿下の公費支出にかかるご異議には疑問が残るのである。

 もう一つの問題発言は、「身の丈にあった儀式」という表現である。
 宮中祭祀を憲法に規定された天皇家の私的な行事としたのが、身の丈という表現で、宮中祭祀が、日本古来の伝統ではなく、憲法に規定された法的行為になっているのである。
「身の丈にあった」という表現では、今上天皇の大嘗祭が「身の丈を越えた」ものであったかのような印象をあたえかねず、不穏当に響く。
 秋篠宮が、大嘗祭の費用は、国家ではなく、皇室が負担すべきものだと主張するのは、憲法原理主義に立っているからと思われる。
 そもそも、憲法が規定する戦後の民主化改革(神道指令)は、天皇や皇族を神道の神官とする国家神道の解体で、国家祭祀を天皇家の私的行事にすることにあった。
 しかし、これまで、この憲法の規定は、歴史的解釈によって、曖昧にされたまま、宗教性が明らかな大嘗祭でさえ、公的性格をもつとして、国費によって賄われてきた。
 秋篠宮殿下が指摘したのは、この矛盾で、殿下は、伝統よりも、戦後憲法を重んじられたのである。

 3つ目は、公人と私人の区別で、秋篠宮殿下は、今回、私人としての人格をあらわにされた。
 大嘗祭の在り方について、「宮内庁長官などにはかなり私も言っているんですね。ただ、聞く耳を持たなかった」などの発言をくり返された。
 宮内庁の山本信一郎長官にたいして「聞く耳を持たなかった」と非難されたのは、公人の品位を捨てた個人もしくは私人のもので、殿下の品位のためには望ましいことではなかった。
 宮内庁長官は大嘗祭費用の出どころを決定するような国政事項に関与すべき立場にはなく、政府の一員として、その方針に従っているに過ぎない。
 秋篠宮殿下は、大嘗祭を「内廷会計(内廷費)」で賄うべきだともおっしゃられた。
 だが、内廷費は、皇室経済法施行法で規定された定額が毎年、国庫から支出されており、その額はわずか3億2400万円に過ぎない。 
 この金額のどこから大嘗祭の費用を工面できるとお考えなのであろうか。
 秋篠宮殿下のご発言には乱脈がみられる。
 帝王学においては、私心をおさえることを第一義とする。
 私心をだすと敵をつくるからで、権威は、敵をつくらないことからうまれる。
 皇室には、今上天皇の皇太子(明仁親王)時代、帝王学を説いた小泉信三のような教育者が不在で、皇族をとりまいているのは、天下り官僚ばかりである。
 皇室は宮内庁の人材払底という内なる危機にもさらされているのである。

posted by office YM at 11:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする