2019年01月11日

「天皇の地位」C

 国体・神道・祭祀
「天皇の地位」C
 われわれは、唯心論と唯物論の二つの世界を生きている。
 唯物論は目に映る物質の世界で、唯心論は、目に見えない心の世界である。
 物心二元論といってもよいが、この両眼性が、日本人の国家観といえる。
 国家を、実体としての政体、属性としての国体に分けて、両眼でながめるのである。
 といっても、属性としての国体が、モノとして、どこかに存在するわけではない。
 国家が物的な存在なら、国体は心的な存在で、日本人は、歴史や伝統、文化や習俗などの文化概念をもって、これを国体とする。
 それが伝統国家の国民性で、日本人は、天皇を神として敬う唯心論と天皇を一人の人間としてみる唯物論の両方の視点を併せもっているのである。
 政体と国体と同様、権威と権力も二元論で、二元論に立たなければ、国家や権力構造の本当のすがたをとらえることはできない。
 二元論において、世界は、物中心の唯物論と心中心の唯心論から成り立っている。
 したがって、二元論をわきまえなければ、物事の表層しか見えない。
 われわれが、国家や権力の本質を見失うのは、一元論的にみるからである。
 戦前の国体は敗戦で消え、戦後、天皇に代わって、アメリカが新しい国体になったという論説や、古くは、天皇なきナショナリズムや憲法を新しい国体とする新保守主義がもちあげられた。
 これらの言説が的外れなのは、一元論に立っているからである。
 一元論は唯物論で、マルクス主義を挙げるまでもない
 唯物論に立つと、物質や現象、利害以外のものが見えなくなる。
 天皇や国体は、唯物論的なモノやかたちではなく、かたちのない唯心論である。
 したがって、目で見ることはできない。
 唯物論では、天皇や国体の本質は、見えてこないのである。
 天皇は唯心論の存在で、日本人の神道的世界観は、唯心論に拠って立つ。
 多神教や自然崇拝が唯心論で、心にもっとも深く根を下ろしている日本人の宗教心は、高天原信仰=神道といえるだろう。
 天皇主権が、戦後、アメリカ主権におきかえられたように見えるのは、一元論=唯物論に立つからである。
 しかし、天皇をささえてきたのは、神話や歴史、民族性にもとづく唯心論であって、制度や仕組み、機関のような一元論的な唯物論ではなかった。

 キリスト教やイスラム教などの一神教も唯物論である。
 かつて、ヨーロッパも多神教で、ギリシャ神話と日本の神話には、類似性が少なくない。
 ところが、一神教=キリスト教によって、唯心論がヨーロッパから一掃された。
 宗教だから唯心論と思うのは錯覚で、一元論である一神教は唯物論の原型となった。
 神の代わりに合理主義や科学、ことばがおかれて、それらが絶対化されたのである。
 それがロゴス主義で、世界の神的な秩序には、合理主義や科学からことばや理性、真理や論理、王権までがふくまれる。
 王権神授説も、キリスト教的な一元論で、キリスト教によって、唯心論的な宗教が失われて、神までが唯物的になった。
 神が科学や合理主義に入れ替わって、ロゴス主義から、ついに、革命国家がうまれて、西洋は、丸ごと、唯物論となった。
 西洋をとおして日本をみても、わからないのは、西洋の革命国家が唯物論に立っているからである。
 歴史や伝統、文化などの唯心論を断ち切ったからで、革命国家が信奉するのは、合理主義と科学、論理(イデオロギー)だけである。
 アメリカやロシア、中国は、革命国家で、そこで、資本主義がさかえているのは、資本主義もまた革命をうみだした唯物論だったからである。
 一神教が唯物論となるのは、キリスト教は、神との契約だからである。
 祈るのも、神との契約を確認することで、モーゼの十戒も、1から4までは神との契約である。
 一神教の西洋の祈りが契約となるのは、祈る対象が人格神だからである。
 これは、日本人の宗教観にはないもので、日本人の拝む対象は、人格をもたない自然神である。
 しかも、多神教で、アニミズム(万物霊)やシャーマニズム(神霊交流)という縄文の遺伝子をひきついでいる。
 宗教といっても、西洋と日本では、性格が百八十度ちがうのである。
 西洋の神は唯物論的なフィクションだが、日本の神は、唯心論的に実在する。
 神話や至高の理想としての高天原は、日本人にとって、心のなかに実在するもので、そこに、天皇の地位の問題がかかわっている。
 次回は、天皇の地位が、いかに、日本人の宗教観や歴史観、国体観に深く根ざしているかをみていこう。
posted by office YM at 00:30| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする