2019年05月17日

神道とはなにかD

 神道とはなにかD 
 ●日本精神をつくりあげた神道
 現在、神道的な価値観が、世界的に見直されている。
 その一つが、自然にたいする考え方である。
 自然を征服する西洋にたいして、日本は、自然との共生で、地球にやさしくというキーワードは日本から発せられた。
 もともと、神道は、自然崇拝の宗教である。
 西洋には自然崇拝という考え方がない。
 自然は神が創造したものだからである。
 神が創造して、糧として、ヒトにあたえたものなので、煮て食おうが焼いて食おうが人間の勝手というのである。
 西洋の神は、創造主にして唯一神、絶対神で、絶対的存在である。
 西洋が神を中心とする世界観のもとで回転してきたのは、神が圧倒的な力をもって、人々を支配してきたからだった。
 紀元後からルネサンスまで、ヒトは、人権どころか、人格や個性さえみとめられない神のしもべだった。
 そして、宗教戦争では、神の私兵となって、多くが命を落とし、ドイツ農民戦争では、人口が半分になってしまったほどだった。
 キリスト対イスラム、カソリック対プロテスタントの一神教の内紛がいまもなおつづいているのは、一神教の世界では、神が人間の心に占めるウエイトが日本人の想像がおよばないほど大きいからである。
 西洋では、ことば(=ロゴス)までが神からあたえられた。
 一神教における信仰は、神との契約で、ヒトは、ことばをとおして、神と約束をかわす。
 西洋人の自我がつよいのは、直接、神とむきあうからである。
 神という絶対的な後ろ盾をえて、かれらは、絶対的な自信を獲得する。
 それが、オーマイゴットの精神で、キリスト者にとって、神の祝福や神との出会いがなによりも大事なのである、

 日本には絶対神がいない。
 縄文時代から多神教のアニミズムで、八百万の神々は、自然や人々とともに、世界からうまれた。
 日本の神々は、世界を創造したのではなく、世界からうまれおちたのである。
 八百万の神々やミコト、ヒトが、大自然のなかで共存する日本では、単独で存在するものなどない。
 絶対神がいなかったので、自我も個人主義もうまれなかったのである。
 かつて、ヒトは、主客未分離の境地で、血族や部族、共同体中心の集団的な生を営んでいた。
 それが神道の淵源で、多神教の下では、集団的な生が栄える。
 それがさいわいだったのは、そこでは、信頼や善意、情や利他心などの集団の心というべきよい心がはたらくからである。
 神道は無意識の宗教ともいわれる。
 すべて、直観やなりゆきにまかせきるからで、それが惟神(かんながら)の道である。
 惟神というのは、神の摂理にあずけきってしまうことで、人間の考えほど浅はかなものはない。
 このとき、意識が捨てられる。
 集団に宿るのは、意識ではなく、無意識である。
 無意識の神道は、自然崇拝の宗教でもあって、自然界には、意識もことばもない。
 意識やことばは非自然物なので、自然崇拝(=自然と同一化)すると消えてしまうのである。
 生きてゆくのに必要なのは、習慣やきまりごと、日常的なふるまいで、ほとんど無意識である。
 集団は、意識をもつことも、モノを考えることもできない。
 モノを考えるのは、かならず、個人であって、一人ひとり考えがちがう。
 集団が個になって、無意識が意識に転じた。
 ヨーロッパで、意識がうまれたのは、絶対神に出遭って、個に目覚めたのちのことである。
 神から、汝はだれぞと尋ねられて、ヒトは、個のじぶんに出遭った。
 キリスト教によって、ヒトは、無意識だった集団の一部から、意識をもった個人になったのである。
 神が、個人をつくって、意識をさずけたのは、信仰を迫るためだった。
 救ってやるが、その前に、たっぷり、孤独と死の恐怖、絶望を味わえというのである。
 それが悲劇の誕生で、そこから、人類の苦しみや悲しみがはじまった。
 神道は、その逆で、意識を捨てて、無意識をとれという。
 キリスト教では、神を発見した意識は開明的で、一方、無意識は、神を見ることができない未開状態ということにされている。
 西洋では、意識やことばが光で、無意識は、無神論の闇なのである。
 日本は、その逆で、無や空は、悟りの境地である。
 そして、意識は、しばしば、苦の原因とされる。
 虚栄や嫉妬、不安や憎悪、絶望などの悪意やわるい感情も意識から生じる。
 西洋が意識のなかに絶対神をもとめたように、日本人は、無意識のなかに無や空をもとめた。
 それが神道の無意識で、集団の心である。
 聖徳太子の和の心は、日本の伝統的な精神だったのである。
 そして、その日本精神が、神道につちかわれたものだったことはいうまでもない。

posted by office YM at 15:24| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする