2019年12月25日

伝統主義と民主主義@

 ●民主主義は人類至高の法典か
 戦後、アメリカから民主主義がはいってくると、日本人は、手を打ってよろこんだ。
 いまも、日本人の多くは、民主主義が、人類史上、最良の政治制度と信じている。
 それどころか、民主主義を一つの文化として、ありがたく、これをおしいただいているありさまである。
 そして、君民一体や「和の精神」、権威と権力の二元論などわが国の伝統的な政体や価値観にはまったく疎いのである。
 宗教による支配や絶対王政、奴隷制度がなかった日本で、なぜ、民主主義がこうももてはやされるのか。
 理由は、GHQによる共産党・左翼の解放とWGIP(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)である。
 GHQには、民生局のケーディスに代表されるニューディーラー(社会民主主義者)が多く、民主主義は、共産主義(=人民民主主義)と双生児の関係にあった。
 GHQの公職追放令によって、日本国内で指導的な立場にあった21万人の愛国的・保守的な人々が、政官界や大学、マスコミから追われると、それまで、刑務所に送り込まれるなど不遇だった左翼・共産党員らが、大挙して、日本の中枢機関にはいりこんだ。
 そして、マスコミを中心に、民主主義の大宣伝をはじめた。
 アメリカ製民主主義もソ連製人民民主義も、当時の日本には、金ぴかに輝いて見えていた。
 国体(天皇)がなかったら、日本にも、共産主義革命の危機が迫っていたであろう。
 日本人は、民主主義がヨーロッパの伝統的な思想と思っているフシがある。
 ところが、ヨーロッパで民主主義が萌芽するのは、近代になってからである。
 アメリカ民主主義にいたっては奴隷解放後で、1919年のパリ講和会議の「人種的差別撤廃提案」(日本提案)では、議長をつとめたアメリカのウィルソン大統領は、急きょ、全員一致をもちだして、可決寸前の同案を否決している。
 奴隷制度や植民地主義、帝国主義の欧米に、民主主義を育む風土などなかったのである。

 ヨーロッパの中世がはじまるのは、イベリア半島をイスラム教徒から奪回するレコンキスタ(711年〜1492年)以後である。
 そのとき成立したポルトガル・スペインが、アフリカやアジア、南米などで殺戮や略奪の限りをつくしたのが大航海時代(15世紀半〜17世紀半ば)である。
 7回におよんだ十字軍遠征(11世紀末〜13世紀)と大航海時代、法王と王権を分離した王権神授説と、当時、ヨーロッパにあったのは、権力と宗教による血の支配だけだった。
 ヨーロッパが、宗教の重圧と絶対専制のくびきを断つきっかけとなったのがルネサンス(14〜16世紀)と宗教改革だった。
 だが、ルネサンスにはさしたる成果はなく、プロテスタントとカトリックがたたかった17世紀の「三十年戦争」では、なにもうむものはなかったばかりか、主戦場となったドイツの人口が1600万人から600万人まで減少する惨劇を招いた。
 ヨーロッパに民主主義のきざしがあらわれるのが、17世紀のイギリス革命(清教徒革命・名誉革命)から18世紀末のアメリカ独立革命、フランス革命にいたる市民革命の時代にはいってからで、これに、産業革命がむすびついて、ようやく、近代市民社会の骨格ができあがった。
 ヨーロッパにおける民主主義の土台になったのは、17世紀のホッブス(「万人の戦争」)以降、ルソー(フランス革命)、ロック(アメリカ独立戦争)、マルクス(ロシア革命)ら4人の社会契約説である。
 マルクスの資本論は、ルソーとタルムード(ユダヤ経典)を合体させた奇書というべきもので、ロックは人民の革命権(アメリカ憲法)を唱えた。
 民主主義の民主は、国家にたいする国民一般(全体)という意味で、これを個人主義的な民主と解しているのは日本だけである。
 ルソーやマルクスにおける民主主義の民は、民総体のことで、民主的な手続きにもとづいて、国家が国民の主権を預かって、政府をつくるのは、人民独裁の名目を借りた独裁にほかならず、個人としての民主はみじんもふくまれていない。
 17世紀の世界を見回して、民主主義がおこなわれていたのは、日本だけである。
 当時、人口は、江戸が130万人、大坂も京都も40万人をこえている。
 ロンドンが70万人、パリ50万人、ウィーン25万人である。
 都市機能を維持するのは、食糧確保や衛生管理、都市整備の面からきわめて困難で、ヨーロッパでは、下水道の不完備とネズミの発生からペストの流行に見舞われて、何度も、都市機能を喪失している。
 錦絵などに残っている当時の日本の町並みの美しさは、ヨーロッパとは比較にならないもので、ヨーロッパでは、宮殿にしかなかった額縁絵画や花瓶が庶民の家に飾られていた。
 個人が、宗教や権力から自由だったのは、君民一体という民主主義があったからである。
 それが、伝統国家というもので、権威から切り離されていた権力は、天皇の赤子たる民に手出しができなかったのである。
 次回以降、伝統主義と民主主義議論をさらに深めていこう。

posted by office YM at 13:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする