2020年08月10日

コロナ後の世界展望と民主主義C

 ●コスモポリタイズムと原爆体験
 アメリカの原爆投下から75年が経過して、8月6日に広島で、そして本日(8月9日)長崎で、75回目の「原爆の日」の式典がおこなわれた。
 原爆による犠牲者数は、広島市において、人口35万人のうち4割にあたる14万人、長崎でも、少なくも、7万4000人が死亡している。
 全員、生きながらの焼死で、その寸前まで、日常の生活がおこなわれていた。
 たとえようがない残酷で野蛮なおこないだが、アメリカは、ビキニ環礁などで、水爆などの核実験を百回以上もおこない、美しい南太平洋の海を死の海に変えてしまった。
 現在、9か国が1万4525基の核兵器を保有している。
 人類は、世界を500回、滅亡させることができる核を保有していることになるが、皮肉なことに、これが、核の使用を不可能にしている。
 そして、その一方、核は、防衛手段としての有効性を高めつつある。
 北朝鮮は、核を保有して、はじめて、体制維持が可能になったのである。
 今回も「原爆の日」の式典で、参列した政治家が声を揃えて核兵器の廃絶をうったえたが、これほど、壮大なる虚言≠フセレモニーはない。
 いくら誓おうと叫ぼうと、核兵器がなくなることはないからである。
 それなら、核兵器を前提とした安全保障、国家防衛の具体策を立てなければならない。
 だが、日本人は、大言壮語をもてあそぶだけで、具体的な対策を考えようとしない。
 そして、平和主義者と称する者たちが漫才師(太田光)の「憲法9条を世界に輸出しよう」などというたわごとをもちあげる一方、安倍首相の「敵基地攻撃能力」への言及を戦争主義とくってかかる。
「敵基地攻撃能力」に関する政府記者会見で、新聞記者が中国や韓国の理解がえられるかという愚問を発して、河野太郎防衛相が「わが国の領土を防衛するのになぜ中国や韓国の了解が必要なのか」と気色ばむシーンがあった。
 平和主義の前で思考停止に陥っているのが、日本のマスコミで、りっぱなことばさえ発していれば、現実的な対応や対策はどうでもよいのである。

 広島を訪れたパル判事は、慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは くり返しませぬから」ということばから大きな衝撃をうけた。
「ここに祀られているのは、原爆犠牲者の霊で、原爆を落としたのはアメリカである。過ちを詫びるのは、日本人ではなく、アメリカであろう」(1952年11月3日)
 これにたいして、碑銘を書いた広島大教授の雑賀忠義はパルに猛反論した。
「われわれは広島市民であるとともに世界市民である。原爆投下は広島市民の過ちではないというのは世界市民につうじないことばだ。そんなせせこましい立場に立つと、過ちをくり返さぬということが不可能になって、霊前でものをいう資格はない」
 なにをいっているのかさっぱりわからない。
 だが、これが日本平和主義の原点となって、ここから原水協(共産党系)や原水禁(旧社会党系)の核廃絶から護憲派の自衛権の放棄にいたる平和運動が展開されてきた。
 雑賀は、もともと英文学者で、心の故郷が英米にあるコスモポリタンである。
 コスモポリタニズムは、世界主義のことで、ノーベル賞の大江健三郎はこううそぶいた。
「日本が悪いから、原爆を落とされた。原爆は、日本人にあたえられた反省の材料である。だが、わたしは日本人ではない。ノーベル賞をうけ、文化勲章を断ったのは、世界市民だからである」
 日本の平和主義者は、例外なく、コスモポリタンで、「9条の会」の小森陽や羹尚中、高橋哲哉ら東大教授に代表される日本の学者や学会、マスコミ、教育界、法曹界、共産党から自民党左派にいたるまでの政党が、コスモポリタニズムに毒されている。
 国から甘い汁を吸う一方で、国を足蹴にするのがコスモポリタニズムという卑劣な思想で、かれらが信奉するのが、自由や平等、そして、民主主義である。
 民主主義には、愛国心も同胞愛も、正義も道義も、モラルすらもない。
 パル判事は、戦争が主権国家の交戦権の行使である以上、戦勝国が「平和にたいする罪」や「人道にたいする罪」という事後法で敗戦国を裁くのは違法と主張した。
 これが、英国法曹界の重鎮ハンキー卿に支持された結果、東京裁判は違法という考え方が世界の常識になって、ウエッブ裁判長もこれをみとめた。
 東京裁判が違法だと世界にうったえて、成果をあげた日本人がいたろうか。
 1959年に広島の原爆資料館を訪れたキューバの革命家、チェ・ゲバラは「きみたち日本人はなぜ腹を立てないのか」と憤った。
 以後、キューバでは、毎年8月6日と9日に国営放送で特番を組み、広島と長崎の原爆投下について教えている。
 原爆投下がアメリカの戦争犯罪だと世界にうったえた日本人がいたろうか。

 日本では、戦後、国権を立てて、国家や国民の利益をまもったことがいちどもない。
 日韓併合や従軍慰安婦、徴用工、南京大虐殺問題などで、中国や韓国のデマゴギーにたいして、国家としての反論定説を一つも用意せずに、謝ってばかりいた。
 日本では、主権が国家にあって、国家主権や国家理性、国家意志が不在なのである。
 それが、如実にあらわれたのが、コロナ禍における日本政府の対応だった。
 戦後、最大の国難にあたって、ただのいちども禁止や命令をださなかったのは、原爆投下や東京裁判にたいして、国家主権を立てていちどもモノをいってこなかったこととけっして無縁ではない。
 日本人は、為政者をふくめて、民主主義が最高価値で、主権は国民にあって国家にはないと思っているのである。
 禁止や命令は国家主権の行使である。
 日本では、国家主権の法的根拠を憲法にもとめることができない。
 国家主権が不在の日本では、国民にお願いして、諸外国に頭を下げるしかないのである。
 日韓併合も、大韓帝国一進会の李容九が百万人の署名をそえて、李完用首相に送った「韓日合邦を要求する声明書」(1909年)が発端で、日本が武力侵攻したわけではない。
 ちなみに、この声明書には「これまでの朝鮮の悲劇は、朝鮮民族がみずからまねいたことであり、朝鮮の皇帝陛下と日本の天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、国を発展させようではないか」と記されている。
 なぜ、日本は、国家主権の下で、国益や国民をまもり、外国に堂々とモノをいうことができないのであろうか。
posted by office YM at 10:24| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする