2020年09月06日

 とりもどせ! 国家の主体性B

 ●防衛と外交で大きく立遅れた日本
 領土と国民、主権の3つが「国家の3要素」といわれる。
 もっとも、これは、王権神授説にもとづくもので、唱えたのは、16世紀のボーダン(「国家論」)である。
 17世紀のホッブズやロック、18世紀のルソーの「社会契約説」によって、王権神授説が否定されて、国家主権の根拠が、神から国民へと移った。
 ルソーは、国民一般に主権があるとして、それが、フランス革命の理論的な根拠となったが、アメリカ革命(独立戦争)やロシア革命も、背骨にあるのは「社会契約説」である。
 社会契約説がいう国民は、ピープル(国民すべて・大衆・民族)で、個人を意味するパーソンではない。
 その国民主権を丸ごとあずかって、ヒトラーやスターリンのような独裁者が出現したが、原爆投下を独断したアメリカの大統領も、民主主義からうまれた独裁者である。
 国民主権と民主主義は、表裏一体の関係というより、ほぼ、同じ意味である。
 国民主権は、多数派のことで、多数派は、多数決によってつくられる。
 多数派も衆愚政治も、独裁すらも、民主主義によって、かんたんにできあがってしまう。
 民主主義も国民主権も、結局、王権神授説の安手の代用品にすぎなかったのである。

 フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」で、民主主義と自由経済の勝利を宣言したのは、1992年のことだが、その仮説が、いまや、あやしくなってきている。
 共産党独裁の中国の大躍進のショックと、民主主義や自由への幻滅が、世界中にひろがっているのである。
 一国主義の台頭は、民主主義と自由の後退で、いまや、世界は、一帯一路の中国経済圏と、米・欧・日の自由主義経済圏に分かれて、するどく、対峙している。
 国家の3要素も変化して、領土と国民、主権だけでは、国家の説明がつかなくなっている。
 新しい国家の3要素は、経済と外交、防衛で、米中摩擦をみれば、そのことがよくわかる。

 戦後、日本は、経済をとって、外交と防衛を捨てた。
 その結果、憲法9条(不戦条項)が日本の平和をまもっているという愚かな思想が蔓延して、日本は、一国主義や自主防衛、積極外交という世界的趨勢に乗り遅れた。
 日本の安全をまもっているのは、世界第6位の軍事力と日米安保条約、国連憲章51条「個別的自衛権」で、憲法9条における交戦権放棄は、自国防衛を義務づける国際慣例法にたいする重大なルール違反なのである。
 日本は、経済力において、たしかに、一応の成功をおさめた。
 だが、防衛と外交政策において、世界から、大きく立ち遅れている。
 国家は、権力の政体(ネーション)と文化の国体(ステート)の両面をもつ。
 中国のステートは、共産主義で、アメリカのステートは、民主主義である。
 伝統国家の日本は、国体としての天皇や歴史、文化をもっている。
 足りないのは、政体の残りの2つ、防衛と外交だけである。
 安倍首相は、辞任の前に決着をつけておくべき懸案として、安全保障政策の新たな方針をあげたが、これは、具体的に、敵基地攻撃能力の保有をさす。
 くわえて、中国の影響力を排除、中国依存度を軽減するため、オーストラリアやインド、ASEAN間のサプライチェーン強化を明確に打ち出した。
 次回は、ポスト安倍における日本の防衛と外交の青写真を描いてみよう。

posted by office YM at 19:03| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする