2021年03月15日

 天皇と民主主義 その8

 ●維新の2巨魁、岩倉具視と大久保利通
 明治維新が革命だったか、クーデターだったかという議論に、あまり意味はないだろう。
 明治維新は、政治的謀略だったからで、立案者は、公家の岩倉具視と薩摩の大久保利通だった。
 両名とも、当時から評判がわるく、岩倉には、孝明天皇の暗殺という風評が立ち、大久保は、士族の目から見れば「戊辰戦争」「士族の乱」をひきおこした大悪党だった。
 岩倉具視は、国葬第一号の超大物だが、公的な記録のほかに評伝がほとんどなく、自宅をやくざの賭場にしていたなどの悪評ばかりが残っている。
 大久保利通の暗殺(紀尾井坂の変)には、会津など旧奥羽列藩から実行犯の出身地、石川や島根、大久保の地元である薩摩の士族までがよろこび、薩摩への納骨がついに断念された(青山霊園に埋葬)ほどである。
 大久保は、佐賀の乱で、みずから鎮台兵を率いて鎮圧、首謀者の江藤新平ら13人を裁判抜きで処刑したばかりか、江藤を晒し首にして、その首を写真に撮って全国県庁に貼りだすというふるまいにでた。
 維新十傑の一人、かつての同志をこの扱いでは、西南戦争における西郷隆盛の場合も推して知るべしで、政府軍を指揮して、懸賞付きで西郷の首をもとめた。戦後、西郷の死を知って号泣したなどの話がつたわるが、すべて、のちの作り話である。

 岩倉具視は、国体を破壊して、大久保利通は、国家を毀損した。
 日本は、幕府(政体)と朝廷(国体)にもとづく「権力と権威」の二元論の伝統国家で、それが、当時、世界一の江戸文化を形成した最大の理由だった。
 岩倉と大久保がもとめたのは、天皇主権による絶対主義国家の建設だった。
 といっても、王権神授説にもとづくヨーロッパ的な王権国家をめざしたわけではない。
 天皇を政治利用して、薩長と公家の一部で、王政復古の名目で、専制国家をつくって、その権力をあやつろうという計略を立てたのだった。
 王政復古といっても、かつて、日本に王政などなかった。大和朝廷は天皇と豪族の連合政権で、天武・持統朝の皇親政治にしても、政治形態は、律令制であった。魏醍醐天皇の「建武の新政」に至ってはわずか数年で挫折している。
 国体を破壊したのが岩倉具視なら、政体をつくかえたのが大久保で、岩倉が天皇絶対主義を、そして、大久保は、内務省を設置して官僚機構の基礎をつくりあげた。
 王政復古の後、岩倉と大久保が画策したのが武士階級の廃絶だった。
 公武合体論で騙して、徳川慶喜に大政奉還(1867年)させたのち、版籍奉還(1869年)や廃藩置県(1871年)にもとづく辞官納地や秩禄処分などで武士の生活権を危機にさらして、廃刀令や徴兵令などによって、さらに旧来の特権を奪って、士族を追いつめたのである。
 岩倉と大久保のやり方は狡猾で、王政復古の後、徳川慶喜が出席していない小御所会議で、慶喜の辞官納地を主張した。
 新政府が、徳川慶喜を政権にくわえず、辞官納地を要求したことに、旧幕臣や幕藩士族らが憤激したのはいうまでももない。
 版籍奉還したのは、知藩事として、藩主が藩政を執ることをゆるされたからだった。ところが、その2年後の「廃藩置県」によって、県の政治は中央から送りこまれた役人(県令)にゆだねられることになって、藩主も藩士も権力や役職、収入を失うはめになった。
 徳川慶喜も全国の藩主、藩士も、岩倉具視に一杯食わされたのだった。
 慶喜は、1868年、旧幕兵や会津・桑名の藩兵を率いて、大坂から京都にむかう途上、薩長両藩を中心とする新政府軍と衝突して、ここに、戊辰戦争の火ぶたが切って落とされた。
 鳥羽・伏見の戦いで勝った新政府軍は、江戸へ引きあげた慶喜を朝敵として征討の軍をおこし、各地で旧幕府側の勢力を打ち破って、江戸に迫った。
「官軍」の名乗りと「錦の御旗」の前に戦意を失っていた慶喜は、恭順の意を示したため、新政府軍は戦うことなく江戸城を接収した。江戸城の無血開城の交渉は、1868年、新政府側を代表する西郷隆盛と旧幕府側を代表する勝海舟の間でおこなわれて、これで、政変は収束する方向へむかうはずだった。
 前年、すでに、大政奉還がおこなわれて、争いの種はなくなっている。

 ところが、ここからが岩倉と大久保の悪知恵で、日本は旧体制の破壊≠ニいう新しい局面へはいってゆく。
 岩倉と大久保が、フランス革命のロベスピエール、イギリス革命のクロムウェル、ロシア革命のレーニンとスターリンとなって、天皇軍事国家をつくってゆくのである。
 戊辰戦争をおこして、旧幕臣や奥羽越列藩を壊滅させた新政府軍が、つぎにもちだしたのが「版籍奉還」と「廃藩置県」だった。士族をおいつめて、1874年の佐賀の乱から神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして、1877年の西南戦争で、不平士族を一掃すると、徴兵令を敷き、日清・日露戦争の準備をすすめる。
 それにしても、幕府や列藩の軍隊は、なぜ、薩長軍に手も足もでなかったのであろうか。
 火器である。薩長の火器は、アメリカ南北戦争(1862〜1865年)で使用されたスナイドル銃やミニエー銃、エンフィールド銃が主力で、殺傷力がつよく、南北戦争では、約62万人の戦死者をだしている。
 アメリカから中古の銃を大量に輸入して、薩長に売りつけたのが、長崎県のトーマス・グラバー(「グラバー園」)で、その手先となったのが海援隊の坂本龍馬だった。
 長崎グラバー商会は、世界的財閥「ジャーディン・マセソン商会」(上海)の日本支社で、坂本龍馬のほか、五代友厚と岩崎弥之助とも親しく、五代ら十数名をイギリスに留学させている。
 マセソンが日本に目をつけたのは、日本の金で、当時、日本の金の産出量が世界の総産出量の3分の1を占めていたが、わずかの期間で、すべて流出している。
 次回は、明治維新の背後で、金をめぐってくりひろげられた国際陰謀についてのべよう。
posted by office YM at 11:49| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする