2021年03月22日

 天皇と民主主義 その9

 ●明治維新の立役者は五代友厚とグラバー
 岩倉具視が唱えた大政奉還≠ヘ、天皇大権の名目で国権を牛耳ろうとする謀略で、モデルは、王権神授説にもとづくヨーロッパの絶対王政だった。
 だが、日本には、ヨーロッパのように、天皇が、直接、民を支配した歴史的事実はない。
 大和朝廷は、天皇と豪族の連合政権で、皇親政治の天武天皇も、大宝律令の原形となる浄御原令(きよみはらりょう/681年)編纂を命じるなど、もとめたのは、律令体制だった。天皇政治をめざしたのは、後醍醐天皇の「建武の新政」だけだが、わずか数年で挫折している。
 権力を行使したのは、天皇から政治の実権をあずかった官僚で、聖徳太子の17条憲法は、官僚心得(行政法)だった。
「事を論ずるに……何事か成らざらん(第一条)」や「獨り斷むべからず必ず衆と與に論ふべし……(第十七条)」と、議論の重要性や独断の排除がくり返しのべられているのは、官僚が政治の実権を握っていたからである。
 17条憲法の議論重視の精神が反映されたのが「五箇条の御誓文(第一条/広く会議を興し、万機公論に決すべし)」で、近現代日本の議会制民主政治にもこれが受け継がれている。
 戦後、日本は、アメリカから民主主義を教えてもらって、よい国になったという左翼の言い分は、歴史を知らない者のたわごとで、日本には「事を論じて何事か成らざらん」や「万機公論に決す」という多数決にすぎない民主主義にまさる伝統的な政治形態があったのである。

 この政治理念を破壊したのが、岩倉具視の王政復古で、岩倉は、懐刀だった井上毅に天皇を元首とする明治憲法の基本構想をつくらせ、伊藤博文をドイツに派遣して、明治憲法起草の準備にあたらせた。
 昭和の軍国主義は、天皇を、法的には元首、精神論的には現人神に仕立てた天皇制ファシズム≠ナ、大東亜戦争だけで、300万人の兵士と国民が天皇絶対主義の下で死んでいった。
 日清・日露から大東亜戦争まで、世界戦争が可能だったのは、天皇が主権をもつ明治憲法下では、天皇の名で、好き放題に徴兵できるからだった。
 これに反発したのが、不平士族の乱で、辞官納地や秩禄処分などで収入源を断たれた上、徴兵令で、武士の誇りや特権を奪われて、士族が叛旗を翻さないわけはなかった。
 だが、これも、岩倉や大久保には、計算済みで、反乱鎮圧で、日本から武士がいなくなれば、封建体制が崩れて、ヨーロッパ化が一挙にすすむ。
 ちなみに、徴兵制度を採用して、日本の陸軍をつくった山縣有朋は、剣術を学ぶことをゆるされなかった足軽出身で、元帥になっても、腰からサーベルをぶらさげていた。
 日清・日露戦争に勝てたのは、軍隊の主力が、戦争のプロである武士だったからだが、大東亜戦争では、陸軍士官学校や海軍兵学校らのエリート(恩賜の銀時計や軍刀組)に軍の指揮をとらせた。
 武士がいなかったからで、インパール作戦の牟田口廉也、ノモンハン事件や島嶼作戦の辻政信、南方作戦の海軍左派(米内光政・山本五十六・井上成美)ら戦争のアマチュアは、東郷平八郎の助言を容れずに、本土防衛を疎かにして都市空襲や原爆投下を招き、日本を焼け野原にしてしまった。
 日本がこんな愚かな国になってしまったのは、明治維新が国家改造ではなく薩長のクーデターだったからである。

 このクーデターに深くかかわったのが、アヘン貿易で、大きな利益をあげた香港・上海「マセソン商会」とその日本支社の長崎「グラバー商会」だった。
 ちなみに、晩年、東京で過ごしたトーマス・グラバーは、1908年、外国人としては破格の勲二等旭日重光章を授与されている。
 明治維新における薩長政権樹立の最大の功労者が、このグラバーと薩摩藩の五代友厚だったことはほとんど知られていない。
 グラバー商会が、武器を売りつけた最大の取引相手が薩摩藩だった。
 そして、グラバー商会を相手にした薩摩藩の担当が五代友厚だった。
 五代友厚は、西郷隆盛や大久保利通と並んで「薩摩の三才」と呼ばれた。
 もっとも、下級武士の西郷や大久保よりも身分は上で、島津斉彬と島津久光の二代にわたって信任をえて、若い時代は、長崎に遊学して砲術、測量、数学などを学んだ。
 1862年、幕府が、各藩有志を乗船させ、上海に船を派遣した際、これにくわわって、同乗した長州藩の高杉晋作と意気投合、たちまち、肝胆相照らす仲となった。
 勝海舟は、島津斉彬に命じられて、長崎の幕府海軍伝習所で航海術を学んだ折の恩師で、島津両藩主からグラバー、西郷や大久保、高杉、グラバーをとおして坂本龍馬、そして、勝海舟と維新の雄との人脈がこうしてできていった。
 グラバー商会が、薩摩に売ったのが、アメリカ南北戦争で使われた銃だったことはすでにのべたが、アメリカから銃を大量に買い付けたのが英国の代表的な国際企業マセソン商会だった。
 マセソン商会は、井上聞多、伊藤博文ら長州五傑のロンドン留学を支援しているが、グラバー商会も、薩摩藩が、五代友厚ら3人の外交使節団と森有礼ら15名の留学生(遣英使節団)をイギリスに派遣した際、手引きをしている。
 長州五傑と薩摩藩士が、ロンドンで会合をかさねて、討幕の謀議をかさねていたのはいうまでもないが、これが、マセソン商会とグラバー商会が仕組んだ罠だったことに日本の歴史家はふれない。
 犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩をむすびつけた(薩長同盟)のは坂本龍馬ということになっているが、黒幕はグラバーで、当時、龍馬は、頻繁にグラバー邸を訪れて、資金援助を受けていた。
 龍馬率いる亀山社中(海援隊)が、薩摩藩名義でグラバー商会から購入した武器や軍艦などの兵器を長州へ転売したのも、グラバーの指図だった。
 五代友厚は、1864年、薩摩藩にたいして上申書を提出している。
「五代才助上申書」と呼ばれるもので、才助は友厚の幼名で、賢さに感心した島津斉彬のよる命名である。
 五代才助上申書にこうある。

(1)米・海産物などを上海に輸出し、これによって利益を得よ
(2)その利益で、製糖機械を購入し砂糖を製造、販売して収益を得よ
(3)砂糖輸出で得た収益で留学生を派遣、そして同行する視察員が軍艦、大砲、小銃、紡績機械を買い付けよ
(4)学校や病院、化学、印刷、鉄道、電話設備など産業革命の技術を学べよ

 坂本龍馬が作成したといわれる「船中八策」なる伝説(原本は存在せず)も五代友厚の作ではなかったかと思われる。内容が土佐藩脱藩志士の能力をこえていることにくわえ、そのなかにこんな一文があるからである。
 一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事
 幕末、日本から500万両の金が海外に流れている。
 マセソン商会の日本接近や黒船来航も、金をもとめてのことだった。
 金事情に詳しく、金の流失を悔しがったのが、のちに、金融界に転出して「金銀分析所」や「造幣寮」を設立した五代友厚だった。
 次回は、黄金の国ジパングと明治維新の関係についてのべよう。
posted by office YM at 11:25| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする