2021年03月29日

 天皇と民主主義 その10

 ●大久保と西郷を心から恨んだ島津藩主
 明治政府は、島津藩主島津久光の処遇に苦慮し、叙位・叙勲や授爵において最高級で遇したが、久光は、断髪廃刀令など明治政府の命令には一切従おうとしなかった。
 そして、大久保(利通)と西郷(隆盛)に騙されたと二人を呪いつづけた。
 それでも、明治政府は、明治20年、久光が亡くなると国葬をもって丁重に弔った。
 もう一人、明治政府が破格の扱いをした人物がいた。死の三年前、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与された「グラバー商会」のトーマス・グラバーである。
 明治維新というクーデターは、この二人の存在を抜きには考えられない。
 徳川慶喜の大政奉還は、薩土盟約(武力倒幕の回避/1867年)の公武合体論にもとづいたもので、その裏にいたのが、島津斉彬と島津久光だった。
 島津藩と土佐藩は、王政復古後、摂関幕府を廃止したうえで「国家の意思は議事堂で決定されるべし」という国家新体制を提示して、明治維新の方向性を示した。
 この方針に反逆したのが、当初、公武合体論者で、そののち討幕派に転じた岩倉具視だった。
 岩倉は、薩摩藩の大久保と西郷を懐柔して、討幕戦争をけしかける。
 江戸攻撃は、勝海舟による江戸無血開城で、辛くも避けられたが、討幕軍の奥羽越列藩同盟とりわけ会津・庄内藩への攻撃はすさまじく、ジェノサイドの様相をていした。

 ここからが、明治維新の第二段階である。
 新政府の中心となった長州は、なぜ、あれほど戦争をしたがったのか。
 そして、なぜ、幕府軍を圧倒する戦闘能力をもっていたのか。
 長州軍は、薩摩経由で、アメリカ南北戦争の払い下げの新鋭銃(スナイドル銃・ミニエー銃・エンフィールド銃)を入手して、日本一の火器軍団になっていたからだった。
 長州征伐の余波で、長州は、幕府から武器の購入を禁止されていた。
 そこで、イギリスの「マセソン商会(グラバー商会)」は、薩摩の西郷隆盛や大久保利通、長州の高杉晋作、ハリー・パークス(イギリスの駐日公使)らをうごかして、仇敵同士の薩長をむすびつけた(薩長同盟/1866年)。
 長州に薩摩から武器を運びこみ、薩長連合の反政府軍をつくって、大規模な内乱をひきおこさせようというのである。
 それが、ヨーロッパ列強のアジア侵略の常套手段で、インドが好例だった。
 イギリスは、インド内戦の調停を装って、英軍と東インド会社を送りこんでインド全土を植民地化したのだった。
 マセソン商会は、その東インド会社の後継で、清国のアヘン市場を独占したばかりか、清国のアヘン輸出禁止令に対抗して大英帝国艦隊を清に展開させた世界的な悪徳コングロマリットである。
 そのマセソン商会が、長州五傑(井上馨や伊藤博文ら)の欧州派遣や薩摩藩のイギリス密航留学(五代友厚や寺島宗則ら19人)を斡旋している。
 薩長による反政府軍をつくる下心あってのことで、薩長連合は、ロンドンで原案がねられていたのである。
 薩長の密航留学生が学んだ政治手法が、一神教にもとづいた絶対主義国家の建設だった。
 一神教を天皇に置き換えるだけで、日本も、ヨーロッパのような絶対王権の国家がかんたんにできあがる。
 天皇を利用して、絶対王権的な帝国主義国家をつくるのが、薩長討幕派の狙いだった。
 島津久光が大久保と西郷に騙されたと地団駄を踏んだのは、大久保と西郷が藩論である「公武合体論」のためにはたらいていると思っていたからだった。
 ところが、薩長の討幕派は、外国勢力の手を借りて討幕にうごいていた。
 アメリカ南北戦争の払い下げ銃の供給をうけた薩長が、討幕にむかってつきすすんだのは、マセソン商会の思惑どおりで、大政奉還のおこなわれた1867年10月14日、薩長らに討幕の密勅が発せられた。
 岩倉具視の工作で、これに、大久保や西郷、薩長欧州留学組がのった。
 五代は、討幕の欧州留学組の一人である。
 久光は、五代にも騙されていたのである。
 その五代友厚やグラバーに利用されたのが、土佐脱藩組の坂本龍馬だった。
 坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)は、グラバー商会の斡旋で、薩摩藩名義で購入した武器を長州へ転売したほか、貿易や開運、航海術や海戦技術を養成して、長州軍とともに幕府軍ともたたかった。
 亀山社中は、薩長同盟に一役買ったほか、株式会社のモデル(土佐商会)となって、グラバーを顧問として迎えた岩崎弥太郎が、これを土台に、三菱郵便汽船(後の日本郵船)や三菱商事など三菱財閥をつくりあげた。
 ちなみに、竜馬の海援隊は「五代才助上申書(五代友厚)」にのっとったもので、竜馬は、グラバーや五代の隠れ蓑だったのである。
 竜馬の「船中八策」は、明治政府の「新政府綱領八策」「五箇条の御誓文」のほか、自由民権運動や大日本帝国憲法にまで影響をおよぼしたといわれる。
 現物は実在していないが、五代友厚のアイデアだったと思われる。
 八策目に「金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(金銀の交換レート法の改正)とあるが、竜馬に金銀レートにかんする知識はなかった。
 金銀レートの専門家といえば、のちに、金融界に転出して「金銀分析所」や「造幣寮」の設立した五代友厚である。
 孝明天皇の不審死と坂本龍馬の暗殺、そして、五代友厚の実業界への転出が明治維新の第3のターニングポイントである。
 維新後、明治天皇を担いだのが、孝明天皇が心から憎んだ長州だった。
 その長州が、徳川慶喜と京都守護職だった会津藩主・松平容保への敵意をむきだしにするが、孝明天皇がもっとも信頼を寄せていたのは、徳川慶喜と松平容保だった。
 岩倉具視が孝明天皇を毒殺して、公武合体論の竜馬を暗殺したという陰謀論がささやかれるのは、明治維新は、大政奉還後、天皇軍国主義というヨーロッパ型の帝国主義へまっしぐらにつきすすんでいったからだった。
 そのシナリオを書いたのは、維新十傑の大久保でも西郷でも、木戸孝允でも江藤新平でもない。高杉晋作でも坂本龍馬でも、吉田松陰でも佐久間象山でもない。
 天皇元首の大日本帝国憲法制定に執念を燃やし、59歳で死亡した(喉頭がん)岩倉具視だったのである。
posted by office YM at 10:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする