2021年04月19日

 天皇と民主主義 その13

 ●河井継之助と小地谷の官軍問答
 ヨーロッパの市民革命は、主役が、市民(ブルジョワ)だった。
 ところが、明治維新は、反乱軍が「官軍」を名乗って、大政奉還したのちに恭順の意をしめした東北(陸奥、出羽、越後)の幕藩側に殲滅戦を仕掛けるという暴挙にでた。
 反乱軍が幕藩側にたいして攻勢にでたのは、アメリカから火器(南北戦争の中古銃=スナイドル銃・ミニエー銃・エンフィールド銃)をたっぷり仕入れていたからで、銃輸入の仲介に立ったのが、明治政府から、勲二等旭日重光章を授与されたトーマス・グラバーだった。
 グラバーは、中国のアヘン戦争を仕掛けたマセソン商会(イギリス)の日本支社(グラバー商会)で、マセソン商会は、世界的な武器商社だった。
 外国から仕入れた武器で、徳川幕藩体制を壊滅させ、孝明天皇に代えて明治天皇を国家元首に立てて、どうしてこれを、市民革命などということができるだろう。
 明治維新が、薩長の討幕派と宮廷の反孝明天皇派が手をむすんだクーデターだったことは明らかだが、歴史家は、だれ一人、この事実を語ろうとしない。
 日本の歴史家の大半が、遠山茂樹を筆頭に、マルクス史観に立っているからで、明治維新を市民革命と位置づけなければ気がすまないのである。
 憲法は「八月革命説」の宮沢俊義、近代史は「明治維新(岩波)」の遠山茂樹という二人の重鎮(東大左翼)に牛耳られていて、日本の法学や史学は、そこから一歩もうごけないのである。

 明治維新のキーワードが官軍≠ナある。
 官軍の征討大将軍には仁和寺宮彰仁、東征大総督には有栖川宮熾仁が任じられたが、任じたのは「討幕の勅書」や錦の御旗(錦旗)を偽造した岩倉具視や三条実美らで、年少だった明治天皇が関与したはずはない。
 官軍という呼称も、岩倉や三条ら反孝明天皇派の公卿の専断である。
 朝廷の軍が官軍だったのなら、孝明天皇の崩御後、一夜にして、孝明天皇がきらっていた長州が官軍になって、一方、孝明天皇の信頼が厚かった会津藩主松平容保が賊軍になるはずはない。
 孝明天皇が、突如、崩御(1866年12月25日)されると、2週間後の1867年1月9日、明治天皇が14歳で即位して、岩倉や中山忠能ら反孝明天皇派の公卿が続々と朝廷に復帰してきた。
 一方、孝明天皇派の側近だった中川宮朝彦親王や二条斉敬らの公卿が朝廷を追われる。
 そして、官軍を名乗る薩長軍が、孝明天皇の信が厚く、尊王思想が高かった陸奥、出羽、越後を賊軍として、討つという。
 長州は、御所に砲撃を浴びせ、孝明天皇の拉致をはかった逆賊である。
 その長州が、孝明天皇の不審死の直後、喪に服することもなく、反孝明天皇派の公卿らとともに官軍を創設して、天皇と将軍が一体化していた「幕藩朝廷体制」の破壊につきすすんでゆく。
 これは、二重の政変で、1つは、幕藩体制の否定である。
 そして、もう一つは、権力構造の変更である
 権力に正統性をあたえていた権威が、権力の座へ横滑りして、権力と権威の二元化という日本の国のかたちを破壊した。
 日本は、国体=天皇と政体=権力の「二元論」から成り立ってきた国である。
 国体と政体の二元論は「聖俗二元論」でもあって、軍事力をもたない天皇と文化的・宗教的価値をもたない幕府が、支え合って、国家をつくりあげてきたのである。
 古代の豪族との連立政権から律令体制、藤原氏の摂関政治、院政をへて武家政治にいたるまで、日本は、権威と権力の二元論をもって、国家を安定させてきた。
 それが、明治維新で壊れて、明治憲法で、天皇元首の一元論的な専制国家になった。そして、そこから、昭和の軍国主義へ、そして、第二次大戦の敗戦につながってゆく。

 孝明天皇から明治天皇へいたる思想的、政治的連続性がすっぱりと断たれている。
 そして、その断裂の前に、薩摩の大久保利通と西郷隆盛、大量の火器で武装して官軍を名乗った長州、岩倉具視や三条実美らの反孝明天皇派の公卿が控えている。
 官軍は、鳥羽・伏見の戦いから上野戦争(彰義隊)、会津戦争へと戊辰戦争を拡大させていった。
 会津戦争は、奥羽と北越でおきた官軍と旧佐幕系諸藩との戦いである。
 鳥羽・伏見の敗戦後、会津藩主松平容保は謹慎して、官軍に帰順の意を示す。
 斡旋に立った仙台藩と米沢藩は、官軍の会津追討の決定を無情として抗戦を決意して、奥羽の旧佐幕系諸藩を説いて、奥羽大同盟がむすばれた。
「奥羽越列藩同盟」は、現在の青森・岩手・宮城・福島(奥州)と秋田・山形(羽州)、新潟(越州)の7県(31藩)で、有力藩が100藩に足りなかった幕末当時、薩長が31藩を敵に回すのは、天下分け目の戦いといってよかった。
 官軍が勝ったのは、圧倒的な火器と「官軍」の威名によるもので、奥羽越列藩は、内部に官軍への恭順(無条件降伏)派をかかえ、最後まで、徹底抗戦の態勢が敷けなかった。
 長岡藩は小藩だったが、家老上席の河井継之助は、藩主牧野忠訓の絶対的な信頼の下で、英米の武器商人からアームストロング砲やエンフィールド銃などの火器を調達して、一朝有事にそなえる。
 長岡藩が、当時、2門所持してガトリング砲は、日本に3門しかなかったというが、戊辰戦争がはじまると、継之助は、江戸の藩邸などをすべて処分して軍備費にあてている。

 政府軍の岩村精一郎と越後の小千谷(慈眼寺)で会談した継之助は、降伏を迫る岩村に反問している。
「会津討伐の理由は何か」「賊軍を討つが官軍ぞ」「会津は賊軍に非ず」「官軍に歯向かうは賊軍ぞ」「天子を戴く官軍が同胞を討つはずがない」「会津は同胞に非ず」「さては貴殿ら官軍ではあらぬな」
 激高した岩村に継之助はこう言い放った。「賊軍を討伐するというのは天子の名を借りた私闘、権力をとるための野望であろう」
 北越戊辰戦争で、河井継之助が率いる長岡藩は、3か月にわたって政府軍を苦しめたが、戦死者が340人におよび、継之助も銃創がもとで死亡した。
 もっとも被害が大きかったのが会津藩で、白虎隊をふくめて戦死者2400人のほか、婦女ら数千人が虐殺されたが、埋葬禁止令によって、数千の死体が白骨化するまで捨て置かれた。
 藩主松平容保は助命されて、会津藩も取り潰しにはならなかったが、容保と生き残った会津藩士は極寒の陸奥斗南(青森県むつ市)移封を命じられた。
 実高40万石の有数の穀倉地帯だった会津若松の地から、火山灰で覆われた3万石の地に追いやられた会津藩士の多くが、病死や餓死に斃れて果てた。
 松平容保は、首から提げた小さな竹筒を、終生、肌身離さなかったという。
 なかに入っていたのは、孝明天皇の宸翰(天皇直筆の書簡)と「禁門の変」の折の容保の忠誠を称揚する御製の和歌であった。
 明治維新が、薩長と、反孝明天皇派の二重のクーデターだったことをいちばんよく知っていたのは、松平容保であったろう。

posted by office YM at 02:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする