●天皇の政治利用と昭和軍国主義
明治維新によって、封建体制が崩壊して、日本の近代化がはじまった。
市民革命と産業革命を主軸とするヨーロッパの近代化も、封建体制の瓦解をともなっていたのはいうまでもない。
封建体制は、革命派には、旧悪や旧弊だが、国家や民族には、歴史と文化の大いなる蓄積で、かけがえのない知的財産である。
革命は、過去をすべて否定するので、国家や民族の歴史的叡智や文化遺産がねこそぎ失われる。
その代わりにあらわれるのが、啓蒙主義と市民革命の産物である自由と平等、そして、民主主義と国民主権である。
といっても、近代化の眼目は、自由や平等、民主主義や国民主権だけにあるのではない。
むしろ、旧体制の打破に重点がおかれていて、王政や身分制のほか、道徳やモラル、忠誠心のような心の価値までが否定される。
自由の前では、節度は、ただの束縛にすぎない。平等の前では、身分秩序や格式、分の弁えなどの社会規範は悪弊となる。民主主義の前では、英傑による政治は独裁とひとしく、国民主権の前では、国家理性は全体主義とみなされる。
近代は、過去を悪とみなす歴史観に立って、歴史や伝統、習俗やコモンセンスなど、国家的な価値観や民族的な良識を捨て去った体制および世界観である。
そして、その一方、モノ・カネ・技術などの唯物論的な価値だけを追いもとめる。
その典型が旧ソ連とアメリカだが、世界の先進国も、ほとんど、革命国家である。
旧ソ連や中国などの共産主義は、民主主義をまるごと国家があずかった人民政府で、アメリカも、伝統をそっくり民主主義に入れ替えた革命国家だった。
第二次大戦は、革命国家と伝統国家、民主国家と独裁国家が争った戦争で、スターリンとルーズベルトは、ともに、日独の枢軸国とたたかった盟友であった。
日本と西洋では、伝統国家と革命国家である以前に、多神教文化≠ニキリスト教文明≠ニいう際立ったちがいがある。
多神教の日本は、文化の国で、多様性と奥行きをもつ。
一神教の西洋は、文明の国で、神や正しいもの、真理は一つしかないという考え方が、科学をうみだした。
文化は、時間的蓄積で、厚みを形成する。
文明は、空間的な広がりで、文化という歴史的土壌の上に開花する。
文明は、テクノロジーで、日々、進歩する。
ところが、文化は、厚みをますだけで、変化しない。
それが保守で、文明を革新というなら、文化は保守なのである。
日本では、11世紀の初め、紫式部によって、世界初の長編小説「源氏物語」が書かれているが、その頃、ヨーロッパは、7回にわたる十字軍の遠征がはじまったばかりで、ダンテが神曲を書いたのは、源氏物語が書かれた200年もあとのことである。
鉄砲伝来は、1543年(種子島)のことだが、32年後の1575年、織田信長は、武田勝頼とたたかった長篠合戦で大量の鉄砲(火縄銃)をもちいている。1600年の関ヶ原の戦いで使用された鉄砲の数量は、全ヨーロッパの鉄砲数よりも多く、刀剣の伝統がある日本の鋼技術によって、性能も、ヨーロッパのものよりすぐれていた。
文化という土台がゆたかであれば、文明という利器は、かつて、唐文化を国風文化にきりかえたように、容易に受容できるのである。
産業革命以前のヨーロッパから学ぶべきものはなにもなく、ヨーロッパが産業革命で大躍進したのは、明治維新(1868年)を30年ほどさかのぼった1830年代のことだった。
日本は、維新後、わずか20数年で鉄道や電話、郵便などのインフラを整備し、綿糸や生糸の大量生産・大量輸出を始めるなど、産業革命でヨーロッパの後を追った。
日本が、短期間で近代化に成功したのは、伝統国家として、比類のない文化的な厚みをもっていたからだった。
ところが、明治維新で、ヨーロッパ化をめざした薩長政府は、江戸時代に頂点をきわめた日本の文化や技術を、西洋より劣った野蛮なものとみなして、伝統破壊に走った。
断髪脱刀や廃仏毀釈、鹿鳴館文化やヨーロッパを真似た伯爵や侯爵などの身分制度は、歴史にたいする自己否定にほかならないが、最悪だったのは、天皇に主権と統帥権をあたえたことだった。
江戸時代の「禁中公家諸法度」では、天皇に最大の敬意を払いながら、政治に口出しをしたら島流しにすると脅している。権威と権力、国体と政体の二元論をまもりぬくには、それほどの覚悟が必要なところ、岩倉具視と伊藤博文は、憲法で天皇を、西洋式帝国主義のリーダーである大元帥に祭り上げた。
その脱線がゆきついたところが、昭和軍国主義で、天皇は、ついに、現人神になった。
軍人・軍属が天皇を敬ったわけではない。国家を思いどおりにうごかすのは、天皇を神ということにして、その天皇神を政治利用するのが、いちばん効率がよかったのである。
天皇陛下の名を口にするときはかならず起立して、毎朝、御真影に頭を下げるのは、個人崇拝で、皇祖皇宗の遺訓である大御心ではない。
「天皇陛下万歳」というときの天皇陛下は、個人で、歴史上の天皇は、天皇である。
権威があるのは、天皇であって、軍服を着て、馬にまたがった天皇陛下ではない。
武士階級廃止という伝統破壊と天皇の神格化、徴兵制度によってできたのが、日本の近代軍隊だが、野蛮きわまりないものだった。
「生きて虜囚の辱を受けず」というのは、玉砕や自決をおそれるなということで、食糧ももたずに遠征した「インパール作戦(牟田口廉也)」では16万人(ビルマ戦線)の軍人が戦死しているが、大半が餓死か自決だった。
日本本土のまもりは、伝統的に「漸減邀撃作戦」にあって、太平洋を西進してくるアメリカ海軍艦隊を潜水艦などで戦力を漸減させ、日本近海で艦隊決戦を挑めばかならず勝てる。戦艦大和や武蔵、世界一だった潜水艦隊はそのためのものだった。
そして、サイパン島や硫黄島など日本本土に近い島々を要塞化すれば、アメリカは、日本の国土に近づくことができず、日本は、勝てないまでも、負けることはない。
だが、長野修身軍令部総長や海軍左派(三国同盟反対派/米内光政・山本五十六・井上成美)はこの「漸減邀撃作戦」を主張する東郷平八郎ら長老を退けて、南洋作戦へのりだす。
天皇の軍事顧問だった長野修身ら海軍首脳が、天皇を説得して、方向を転換させたのである。
そして「ご聖断が下った」として、真珠湾攻撃という世紀の大愚行を実行に移したのである。
天皇の政治利用が、いかに大きな国難をもたらすか、真珠湾攻撃ほどそのことを如実にしめす歴史的事実はない。