2021年08月29日

 天皇と保守主義2

 ●保守は歴史主義、革新は理性主義
 保守と革新、右翼と左翼は、相対論である。
 保守や右翼は、革新や左翼のあとからうまれたからである。
 近代になってからのことで、日本に左翼が登場したのは、ロシア革命5年後の大正11年で、コミンテルンの日本支部として、日本共産党が設立されたのが最初だった。
 コミンテルンは、レーニンがつくった共産党の国際組織で、大正デモクラシーは、国家主義にたいする反発と、共産主義へのあこがれがないまぜになった大衆運動だった。
 国家主義との対比でいうなら、保守は歴史主義で、革新は、理性主義ということができる。
 保守といえば、林房雄や福田恒存、林健太郎、会田雄二ら諸先達の名が思いうかぶ。
 いずれも、歴史主義者で、理性主義にたいするきびしい批判者であった。
 西洋で保守主義者といえば、だれもが、エドマンド・バークの名を挙げる。
 革命批判の書(『フランス革命の省察』)が保守主義の聖典とされているので保守主義者とされている。
 ところが、政治家としては、イギリス下院で、長年、保守党と対立する自由党(ホイッグ党)の幹部をつとめた自由主義者だった。
 バークの主張は、文化や習俗、制度の基礎は、歴史にあって、時間の試練に耐えてきた伝統的な精神や慣習だけが普遍性をもつという歴史主義である。
 歴史は、絶対的で、相対化されない。バークの考えが保守主義と呼ばれるのは、歴史=絶対主義に立っているからである。

 歴史や国家、国体や天皇は、絶対的な存在で、相対化できない。
 ちなみに、右翼の草分けといわれる頭山満(玄洋社)とその弟子の内田良平(黒龍会)が立っていたところも、大アジア主義に立つ国家主義者で、欧米の植民地主義からアジアの人民をまもるには国家が盤石でならなければならないとする絶対主義である。
 絶対というのは、比較するものがないことである。そして、相対は、比較の上に成り立つ価値で、都合や条件によって、変動する。
 犬養毅や広田弘毅らの政治家から中江兆民や吉野作造、大杉栄らの思想家と親交があった頭山は、朝鮮の金玉均や中国の孫文、インドのビハリ・ボースやベトナムのファン・チャウらアジアの独立運動家を支援した。
 犬養から、しばしば、入閣をもとめられたが、応じなかっただけではなく、大アジア主義の立場から、満州事変に反対を唱えた。
 頭山にとって、政治は、相対的な価値でしかなく、一方、運動は、絶対的な価値だったのである。
 黒龍会の内田良平は、朝鮮独立運動やフィリピン独立軍の支援、中国革命の孫文への援助、ロシア偵察の「シベリア横断」などの行動力が内外に聞こえていた。
 頭山や内田を、保守や革新、左翼や右翼のカテゴリーで括ることはできないのは、条件によって立場を変える相対論者ではなく、つよい信念をもった絶対主義者だったからである。
 天皇も、歴史に根をもった絶対で、神武天皇が即位された紀元前660年を紀元節(日本書紀)としたのも、イギリスがイギリス革命(ピューリタン革命や名誉革命)をふくめて、自国の歴史や伝統を完全肯定するのも、絶対主義である。
 中国が、天安門広場に毛沢東の肖像が掲げるのも、絶対主義に立ってのことで、中華人民共和国を建国(1949年)した毛沢東は、中国の歴史において絶対的な存在なのである。
 
 一方、理性主義は、知識や学習、頭のなかでこねくり回した想念だけが真実とする思いこみで、自由や平等が比較論で、民主主義にいたっては、多数決という究極の相対論にすぎないことに気がついていない。
 啓蒙主義や進歩主義、近代主義や人間中心主義は、理性にたいする根拠なき信頼で、歴史による試練および全体性にたいする謙虚さを欠いている。
 理性は、矮小で、多くの欠陥を抱えている。そして、理性の動物である人間は、エゴをふり回して、際限なくまちがいをくり返す。理性や進歩、自由や平等にたいする懐疑という赤信号、交通ルールという規制、自重というガードレールがなければ、民主主義は、暴走して、愚民化と野蛮化へむかうのである。
 伝統国家では、社会の矛盾や不条理、対立は、歴史の知恵や経験則、徳性によって調和され、克服される。
 保守主義は、理性や原理、イデオロギーではなく、習慣や習俗、日常性などの時間的な積み重ねであって、文化は、歴史の内部に蓄積される。
 日本は、伝統国家で、自由や平等、人権、民主主義などの啓蒙主義の洗礼をうけていない。
 にもかかわらず、欧米と肩を並べることができたのは、民主主義という共通項があったからである。じじつ、欧米の立憲君主制や議会民主主義と天皇の君民共治は、明治維新(1853年)から日英同盟(1902〜1922年)にいたるまで破綻なく共存していた。
 
 日本人は、民主主義が西洋人の最高英知で、日本には、民主主義に匹敵する文化や政治哲学がなかったと思いこんでいる。
 おおまちがいで、個人の自由や権利、民主主義は、暗黒の中世ヨーロッパにおいて、人類の理想をもとめたものなどではなく、権力と宗教の二重支配から抜け出すための唯一の手段だった。
 そのために、おびただしい血が流されてきたのは、世界史にしるされたとおりである。キリスト教と絶対王政のもとで、虫けらのようにあつかわれていた人民が、人間として復活するには、ルネサンスから宗教戦争、啓蒙主義、市民革命にいたる千年の歴史が必要だったのである。
 一方、日本で、民が虐げられなかったのは、民の代表たる天皇が、権力者に権力の正統性を授ける「君民共治」の国だったからである。
 ヨーロッパでは、民が、ローマ教皇庁と王権の二重支配に苦しんだ。
 ところが日本では、権力が天皇の権威の下にあったため、民の活動が権力によって、妨げられることはなかった。
 ヨーロッパでは、文化は、王族や貴族のためのもので、民や奴隷は奉仕する一方だったが、日本では、衣食住の文化は、すべて、民からうまれた。富んでいたのも商人や豪農で、支配階級の武士の多くは平民から借金を負っていた。
 日本は、啓蒙主義を体験しなくても、しつけや伝習、修身や徳などの教養によって、自由や平等、人権、民主主義以上の知恵をえることができた。
 ヨーロッパの政治が、旧体制(アンシャン・レジーム)の破壊と革命をめざしたのにたいして、日本の政治がまもることだったのは、日本は、国家の前に国体という文化的な器をもっていたからだったのである。
 この国体を、民主主義や憲法におきかえようとするのが左翼で、政治手法にすぎない民主主義、法にすぎない憲法を、文化であるようなデマゴギーをふりまわしている。
 次回は、日本史をふり返って、天皇と保守思想のかかわりをもっと深くみてゆこう。
posted by office YM at 11:04| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする