●改革≠ヘ不毛な相対主義
立憲民主党の枝野幸男が自民党の総裁選にからんで「自民党は変わらない。変われない。新総裁(岸田文雄)になって、安倍、菅内閣となにが変わったのか説明いただく」と息巻き、これがネットでも増幅された。
マスコミも、自民党は変わらない、日本の政治は変わらないと言い立てた。
保守を諸悪の根源のようにいうのは、変化や進歩、革命を善≠ニとらえる強迫観念にとらわれているからである。
じじつ、体制の変化を望まない自民党は悪≠フ根源とされている。
ヨーロッパでは、最大の美徳が保守で、革新は軽薄の代名詞である。
ところが、日本では、保守が頑迷な守旧派で、革新は先進的な進歩派となる。
知識人の95%が啓蒙主義者やマルキストの日本では、インテリが、西洋の思想家や西洋の用語を借りてきて、文化文明論をくり広げる。
かれらが、日本論の根幹である国体や天皇にふれないのは、海外の文献には国体も天皇もないからである。
歴史的な文化蓄積が大きく、すぐれた土着文化をもつ一方、平安後期のかな文字などの国風文化を培ってきた日本が、西洋の感化をうけるようになったのは、明治維新がヨーロッパ化で、多分に、自己否定のおもむきをもっていたからである。
明治政府に招聘されたドイツ人医師ベルツは、政府の若い役人が「われわれに歴史はありません。われわれの歴史はこれからはじまるのです」と口を揃えたことに深く失望した(『ベルツの日記』)という。
薩長の明治政府は、武士という誇り高き文化階級を捨てて、一神教的な神権国家や帝国主義に走った末に、鹿鳴館や貴族制度など西洋の物マネにうつつを抜かした。
江戸幕府によって近代化がおこなわれていれば、日本は、現在とはちがった国になっていたはずである。
「自民党をぶっつぶす」と叫んで政権をとったのが、改革主義者の小泉純一郎(「清話会」)だった。ブッシュにそそのかされ、竹中平蔵の口車にのった郵政民営化が天下の失政、愚策だったことは、だれの目にも明らかだが、政界引退後は、12兆円の国富を節約できるうえ、CO2を排出しない準国産のエネルギー資源である原発の撤廃運動に血眼になっている。
竹中とともに新自由主義という経済リバタリアニズム(無差別的自由主義)に走って、雇用や設備投資、規制や制限によってまもられていた日本型の資本主義を、株主や資本家、投資家が富を独占するアメリカ型の資本主義に変えてしまった。
それが改革の正体で、変えることに目的があって、変えた後のことなどどうでもよいのである。
旧日本海軍は、御前会議で「数か月は暴れてみせます」といって真珠湾攻撃を強行したが、真珠湾攻撃後の世界戦略がなかったため、国家を存亡の危機に追いやって、原爆投下という人類最大の悲劇までまねいた。
ところが、戦後、海軍の人気は上々で、山本五十六は、いまなお、国民的なヒーローである。
日本人は、ヴィジョンがなくても、その場かぎりのスタンドプレーに喝采を送る国民性をもっている。
野党やマスコミは、変われというが、かれらは、代わった後のヴィジョンをもっているのだろうか?
改革や進歩、変化をもとめるかれらの目的は、伝統や文化、体制を破壊して革命前夜の混沌とした状況をつくることにある。
国体維持や国家建設プランなどちゃんちゃらおかしいのである。
これは「二段階革命論」である。すべてに反対して、現体制を破壊したのちに、共産主義革命をめざすというもので、これが、六全協以降の日本共産党の基本戦略である。
第一段階が啓蒙思想にもとづくブルジョア革命で、イギリス革命(清教徒革命/名誉革命)やアメリカ独立革命、フランス革命がこれにあたる。
第二段階がマルクス・レーニン主義のプロレタリア革命ということになるが、この二段階革命論は、民主主義を共産主義へと移行させることができず、結局、失敗に終わった。
二段階革命論に対立するのが一般革命論(永続革命論/トロッキズム)である。五全協までの日本共産党やかつての新左翼、過激派は、暴力革命をおこして権力を奪取せよと叫んだものである。
二段階革命論に立っているのが、現在の日本の日本の左翼である。
西洋が民主主義の実現をもって革命の終了≠ニしたのにたいして、日本の左翼は、現体制を革命の経過≠ニしか見ない。
したがって、自民党政権を倒せ、政治を変えようというだけで、民主主義が実現されている現体制をまもろうとは、口が裂けてもいわない。
民主主義に価値があるのは、多数決と普通選挙法という普遍性をもっているからである。
それがモラル≠ナ、議会では、多数決というモラルにしたがって、粛々と議事がすすめられる。
日本が、聖徳太子の昔から、戦争以外の方法で、意志決定をすすめてきたのは、委任や談合、調整やなどのモラル(基準)がはたらいたからで「和の心」もその一つである。
ところが、左翼は、歴史や伝統、文化を破壊することが民主主義と思いこんでいる。民主主義を、共産主義や社会主義へ至る革命の手段と考えているのである。
共産党と共闘しようという立憲民主党が、リベラル・デモクラシーの政党に変われ≠ニ迫って、マスコミがこれをバックアップするという異様な事態にさらされているのが日本の民主主義なのである。
世界のマネをして、日本は変わるべきという強迫観念から抜けでたのが、安倍外交で、それを踏襲したのが高市早苗だった。
自民党の総裁選で、高市(議員票114票)が下馬評をくつがえして、河野太郎(議員票86票)をおさえたのは、具体的な政策を掲げて、相対論から抜けでたからである。
安倍首相が、憲法改正からインド太平洋構想、アメリカ抜きのTPPなどにむかったのは、国益にそって、レジームを再構築するためだった。
安倍路線を踏んで、高市は、抑止力のあるミサイル配備から原発容認、靖国参拝、経済成長投資などをうったえ、リベラル派の「女系天皇容認論」「夫婦別姓」「脱炭素」「日中友好」を退けた。
改革という相対論を卒業して、国家指針という絶対論を掲げたのである。
マスコミは、岸田内閣でなにが変わったのか、麻生・安倍内閣のコピーではないか気勢を上げた。
岸田内閣のどこが、麻生・安倍内閣のコピーなのか。
岸田文雄が政治の師と仰ぐのが宮沢喜一である。宏池会を率いて、91年に首相に就任したが「近隣諸国条項(1982年/内閣官房長官談話)」で、中韓への土下座外交の端緒をひらいて、保守派から批判された。
岸田首相も、徴用工訴訟に応じる気はないとするものの、徴用工の強制性については、安倍首相の「なかった」とはニュアンスの異なった論をのべたこともある。
初の記者会見で、韓国への言及はなかったが、中韓への不要なへりくだりが「宏池会」の伝統で、経済にはつよいが、政治的には熟練度が高くない。それが池田勇人から宮沢、岸田へつながる旧自由党系の体質で、創始者の吉田茂は憲法改正にまったく不熱心だった。
宏池会は、絶対的な価値観をもたない相対主義で、これまで日本は、改革に最大の価値があるという不毛な相対論に惑わされてきた。
相対主義を捨てわが道を行く≠ニいう絶対主義に立たないかぎり、岸田自民党も日本の未来も、ひられてこないのである。