2021年12月06日

 なぜ日本は中道政治≠実現できないのか6

 ●敵と味方の区別がつかない日本の平和主義
「政治とは敵と味方の峻別である」とドイツの政治学者シュミットは断じた。
 一神教は、神と悪魔がたたかう一元論なので、このような考え方がでてくるのであろう。
 こうもいった。「敵と味方の峻別ができなければ、政治的主体としての国家も国民も消滅する」
 敵と味方の峻別が、国家や国民を外敵からまもってきたというのである。
 中国から朝鮮を征服して、中東から欧州までをおびやかしたモンゴル帝国が日本侵略に二度、失敗したのも、アジアを植民地化した列強が日本だけに手をだせなかったのも、日本には、敵と味方を峻別する意識(攘夷)がつよかったからである。
 敵・味方意識の乏しさから国家を危うくしたのが、かつての朝鮮だった。
 日韓併合条約は、巨額の外債に苦しむ世界最貧国の朝鮮が、皇帝(純宗)と内閣(李完用)、議会を立てて申し入れてきたもので、日本は朝鮮の巨額外債を代弁して、朝鮮国家を近代国家に立て直すべく国家予算並みの資金をつぎこんだ。
 韓国併合(1910年)の15年前、日本は、下関条約(日清講和条約)の第一条で、清国に朝鮮の独立を約束させたが、その2年後、李氏朝鮮王の高宗がロシア公使館で公務をとるなどして、みずから独立を放棄している。
 朝鮮の独立は、清国やロシアにたいする防衛上、日本にとって、欠くべからざるもので、朝鮮の事大主義が日露戦争(1904年)の原因となったのは周知のことである。
 日韓併合は、アジアの安定と日本の安全にとって、最善の策であったことは英米をはじめ列強がみとめるところで、たとえ、日本が朝鮮の主権を侵犯していたとしても、当時の国際法慣行からみて、なんら違法性はなかった。
 韓国が、敵と味方の区別がつかないのはいまも同じで、韓国の次期大統領の有力候補、李在明は「日本が植民地支配にたいして痛切な反省と謝罪の姿勢をもつなら韓日関係に未来はある」などと堂々と公言している。
 体制が異なる中国や北朝鮮に無警戒な一方、日本を仮想敵国にして軍事費を増やしつづけているすがたは異様というほかない。

 戦後日本の平和勢力≠焉A敵と味方の区別がつかない政治的無能者である。
 代表格が、作家の大江健三郎と故瀬戸内寂聴で、憲法九条の熱烈な信奉者である。大江が「九条の会」の発起人なら寂聴は「9条が日本の平和をまもっている」と半世紀にわたって主張しつづけて、若い芸能人や作家、タレントらに大きな影響をあたえてきた。
 憲法9条は、戦勝国の占領政策である武装解除指令(GHQ指令第一号/陸海軍解体)を法令化したもので「ハーグ陸戦条約43条(国の権力が占領者の手に移ったとき、占領者は占領地の現行法律を尊重する)」の条文にも反する。
 日本の平和主義者が、旧敵がつくって、国際法にも違法の疑いがある9条を奉っているのは異常で、憲法で反戦・平和を謳うなら、占領軍がつくった屈辱的な9条を破棄して、自主憲法で、堂々と平和主義を謳えばよいのである。
 だが、そうなると、国連憲章や国際法、自然法や習慣法、日米安保条約との整合性がもとめられて、ノーテンキな日本の平和主義は空中分解する。それを避けるために、かれらは、ことさらに9条をもちあげて、これをまもろうとするのである。
「9条主義者」もまた敵と味方の区別のつかない政治オンチで、国民をまもる国家を敵とみなして、反日・反国家を叫ぶ。国家は悪、個人は善という数百年も昔の市民革命のセンスに立って、ひたすら、国家を呪うのである。
 大江が、わたしは、日本人ではなく国際人なので、文化勲章を拒否してノーベル章をもらったと豪語すれば、瀬戸内は、9条が国家を縛って、戦後平和がまもられてきたとうったえてきた。
 国家も防衛も念頭にないのは、人間は、生まれながらにして、自由と平等をあたえられているというルソー主義に立っているからである。自然状態において、万人が幸せに生きる権利をもっているにもかかわらず、人々が不幸なのは、国家や社会制度、私有財産制のせいとルソーはいう。
 ルソーの「自然に帰れ」が、敵と味方の区別がつかない錯綜で、自然状態におかれたら人間は3日も生きていないだろう。自然状態こそが敵で、ルソーが異を唱えたホッブズをあげるまでもなく「万人の戦争」を防ぎ、国民の生命や生活、安全をまもってきたのは、人々を野蛮な自然状態から救いだした文化や文明、国家だった。

 日本の平和主義者は、大江や寂聴の追従者ばかりで、反日・反国家と反歴史を叫び、ひたすら、人間主義を賛美する。
 そして、市民を名乗る。日本国民ではなく、地球市民だというのである。
「人類みな兄弟」や「武器を捨てると平和になる」というのは、平和主義ではなく、ユートピアニズム(空想主義)やコスモポリタリズム(世界市民主義)で、これらに欠けているのが、道徳や品性、人格などのモラルである。
 国家や社会制度の恩恵に与っておきながら、その国家を罵り、足蹴にするのは、恩知らずにして、モラルが低いからで、平和主義とはなんの関係もない。
 モラルの原義は、モーレスで、外にあらわれた社会的な規範のことである。
 ここから、精神面のモラール(士気)やモラル(徳性)が派生したという。
 モラルは、宗教とのむすびつきがつよく、外国人は、無宗教の日本人が高いモラルをもっていることに首をひねる。
 一神教(創唱宗教)の外国人には、多神教(自然宗教)の日本人が無神論にみえるのである。
 日本は、自然や国土、歴史を神格として、天皇が最高神官に、国民が氏子となる祭祀国家である。
 日本人のモラルの高さは、自然や国土、歴史など、国体との一体感からくるもので、絶対神と信仰契約する西洋の個人主義的な宗教とは、宗教観が異なる。
 日本人のモラルの高さも、宗教や文化、歴史にもとづいていたのである。
 反日・反国家をふりまわす平和主義者がインチキなのは、じぶんをまもっているものに牙をむき、警戒すべき敵に媚びを売るからである。
 日本の平和勢力・護憲派は、敵と味方の区別がつかない政治的未熟者だったのである。
 ちなみに、政治的円熟というのは、自己防衛の能力が高いことをいう。
 次回は、国家防衛という国民的テーマについて考えてみよう。
posted by office YM at 01:17| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする