2022年01月24日

 天皇と日本の民主主義2

 ●天皇政治と「君臣一体」
 古墳時代に、全国の豪族が、大きな乱をおこすことなく、前方後円墳という天皇と同じ墳墓を残したのは、ミコトの末裔だったからだった。
 天照大神の勅命をうけて、ニニギノミコトが高天原から日向国の高千穂峰へ天降った天孫降臨では、多くのミコトが随伴して、地上に降り立った。
 ミコトの末裔だった豪族らは、ニニギノミコトの子孫=天皇の臣下たるべきことを、神話によって、運命づけられていたのである。
 それが「君臣一体」の要諦で『日本書紀』に記されている孝徳天皇の「改新の詔(大化の改新)」にも「独り制むべからず」「臣の翼(たすけ)を得て倶に治めて神(天照大神ら皇祖神)の護(まもり)を得られるべし」とある。
 大和朝廷は、豪族らの連合政権だが、その成立原理が「君臣一体」にあったことはほとんど知られていない。
 当時、大和(奈良)から出雲、九州にかけて、有力豪族が跋扈していた。
 それらの諸国諸侯が争って、最後の覇者が帝王となるのが、世界史の常識である。
 ところが、古代日本では「大化の改新」以降、天智天皇の子(大友皇子)と弟(大海人皇子/後の天武天皇)が争った「壬申の乱」以外、大きないくさはおきていない。
 そして、壬申の乱以後、日本は、ふたたび、天皇中心の政治(律令体制)をめざすのである。
 ●大和朝廷と前方後円墳
 大和朝廷は、東は群馬の毛野氏から、西は九州の安曇氏にいたるまで広大な範囲にわたるが、中心は、伊勢から出雲にむかう畿内と山陽、山陰で、黄道ににそって、巨大な前方後円墳が数多く残されている。
 黄道というのは、春分の日と秋分の日、伊勢神宮の真東からのぼった太陽が出雲大社のある真西に没する「太陽の道」のことで、この日、皇居皇霊殿では皇霊祭、伊勢神宮では遙拝式がおこなわれる。
 五畿(山城・大和・河内・和泉・摂津)には中臣や物部、蘇我や大伴、葛城や巨勢、平郡氏らが勢力をもっていたが、山陽の播磨や美作、備前、備中、備後、山陰の丹波や丹後、但馬、因幡、伯耆にも、吉備氏や筑紫氏、出雲氏らのような有力豪族が一門を構え、大和連合国家の一員をなしていた。
 畿内から山陽、山陰の黄道沿いに大型の前方後円墳が多いのは、高天原から降りてきて伊勢神宮に祀られている天つ神、天神と、天孫降臨以前、葦原中つ国を治めていた国つ神、地神や地祇、産土を祀った出雲大社がむすばれたからである。この地の豪族や有力者は、高天原と葦原中つ国をつなぐ国譲り神話のモニュメントとして、前方後円墳を建造したのである。
 三世紀におよぶ古墳時代に5000基以上の前方後円墳の造営、神話にもとづく国家建設が、祭祀国家のあかしでなくてなんだろう。
 ●神社と鎮守の思想
 前方後円墳は、前の方形(四角形)が葦原中つ国で、後方の円形が高天原である。葦原中つ国と高天原の一体化は、祭祀の根本原理で、それが民のあいだに広がったのが神社である。
 神社(かむやしろ)は、神道にもとづく祭祀施設で、産土神や天神地祇から皇室や氏族の祖神までを祀る。
 文科省の資料では、全国に約8万5千、登録されていない小神社をふくめると日本には10万社をこえる神社があるという。
 神社の起源は、神々が宿る磐座(いわくら/岩石や古木)や祭事をおこなう神籬(ひもろぎ)などの祭壇で、本殿を構えるようになったのは、仏教の伝来以後で、社殿は、伽藍をマネたのである。
 神社は、地霊をしず(鎮)めて、氏神を(守)らんとする鎮守の杜である。
 それが、前方後円墳につながる鎮守の思想で、高天原と黄泉の国のあいだにある葦原中つ国においては、高天原につうじる祖神(ミコト)を祀って地神や地祇、産土を鎮めようとする。
 前方後円墳が高天原と葦原中つ国をむすぶモニュメントなら、神社は、神代と人代の境界線で、注連縄のむこうが神代、こちらが人代である。
「君臣一体」も祭祀国家も、権力ではなく権威、唯物論でなく、唯心論だったのはいうまでもない。
 ●ケンペル『日本誌』にヨーロッパが驚嘆
 天皇政治で「君臣一体」と並ぶのが「君民共治」である。
 ルソーは『社会契約論』のなかで、随意に祖国をえらべというなら、君主と人民のあいだに対立のない「君民共治」の国をえらぶ。だが、そのような国が地上に存在するはずもないので、民主主義の国をえらぶといっている。
 現代日本で、金科玉条のように語られる「民主主義」だが、18世紀の絶対主義体制を生きていたルソーにとって「君臣一体」「君民共治」は、夢のような理想で、現実的には、望むべくもなかった。
 ルソーは、日本の「君臣一体」「君民共治」をどこで知ったのであろうか。
 ドイツ人医師ケンペルが著した『日本誌』である。
 ケンペルは、江戸時代にオランダ商館付の医師として、約2年間出島に滞在して、資料を収集、帰国後に「日本誌」を執筆した。ロンドンで「日本誌」が出版されたのは、死後だったが、大評判となって、フランス語、オランダ語にも訳されて、ディドロの『百科全書』に転載された。
 ゲーテやカント、ヴォルテール、モンテスキューら、ヨーロッパの一流人に愛読されたので、当然、ルソーも読んでいるはずである。
『日本誌』のなかで、ケンペルは、日本の国体政体の二元論を称賛している。「日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の二人の支配者がいる」
 そして、対外政策(鎖国)や徳川綱吉の善政(天和の治)を称えてこう書いている。争いや犯罪がほとんどなく、小伝馬の牢屋はつねに無人だった、と。
 神武天皇即位の時期を紀元前660年と確定したのも、西洋歴をもちこんだケンペルの業績で、前大戦時、日本人が暗記させられた歴代天皇の名前や略伝を解明したのもケンペルだった。
 ●否定された天皇政治の歴史
 ケンペルの『日本誌』を紹介したディドロの後、啓蒙時代とフランス革命の幕が切って落とされる。そして、その約100年後、ヨーロッパでジャポニスム(日本ブーム)がひろがって、知識階級のなかで、天皇の歴史、キングとのちがいも理解された。
 だが、江戸時代の文化や日本文明、日本のよいところは、すべて、明治政府によって否定されて、日本は、西洋化という文化革命の嵐に呑まれてゆく。
 明治政府に招聘された明治天皇の主治医で、岩倉具視の臨終を看取ったドイツ人医師のベルツは、政府の若い役人が「われわれに歴史はありません。われわれの歴史はこれからはじまるのです」と口を揃えたことに深く失望した(『ベルツの日記』)という。
 薩長の明治政府は、一神教的な神権国家や帝国主義に走った末に、鹿鳴館や貴族制度など西洋の物マネにうつつを抜かす。そして、岩倉具視・伊藤博文は王権力がつよいプロイセン王国憲法をモデルに、天皇を元首に戴く大日本帝国憲法を制定して、日本の西洋化に拍車をかける。
 次回以降、西洋化された日本と世界中でゆれうごいている民主主義についてのべよう。
posted by office YM at 10:47| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする