●「一般意志」というルソーの悪魔の思想
マスコミも野党も「民主主義をまもれ」と叫ぶが「自由主義をまもれ」とはいわない。
理由は、明らかで、マスコミや野党は、欧米の自由主義よりも、中ロの全体主義に親近感をもっているからである。
中国が、じぶんたちこそ民主主義だというのは、そのとおりで、民主主義は全体主義でもある。
多数決と多数派独裁がデモクラシーの根幹で、ロシア革命のレーニンが率いた政党の名称も「ボリシェヴィキ(多数派)」だった。
民主主義は、古代ギリシャの大昔から多数決のことだったが、これを国民主権におきかえたのがルソーだった。
西洋で、民主主義=国民主権が最大級の評価をうけるのは、中世ヨーロッパの絶対王権を打倒したからで、そこから、民主主義は、革命の輝けるイデオロギーとなった。
事実、民主主義を標榜する米、中、英、仏、ロシアの五か国(国連常任理事国)は、いずれも、革命国家で、先進国のなかで、純然たる伝統国家といえるのは、日本だけである。
民主主義と国民主権を融合させたのが「社会契約論」のなかでルソーがしめした「一般意志」である。
ひとり一人の人間は、個性や人格、個人史が異なっているので、特殊意志である。
そこで、ルソーは、とんでもない考えをもちだす。
個人差をすべて削ぎ落してしまえば、人間は、人民という無個性で均一的な一般意志にすぎないものになって、権力で、自由に御すことができるというのである。
●「国民主権」というルソーの詐欺的造語
ここから、ルソーという天才的詐話師の巧妙な屁理屈が展開される。
国民ひとり一人が、直接、政治を執るべきだが、国民全員を収容できる議事堂は存在しない。
そこで、一億人の国民を民≠ニひとくくりにして、これに主権をあたえて主≠ニ称する。
これで、ルソー流の民主主義が完成する。
これを為政者があずかって、政治をおこなうのが、国民主権である。
これが「一般化理論」だが、この屁理屈が、マルクス・レーニンや毛沢東の共産主義革命の口実(=人民独裁)にされたのは、保守派陣営のなかでは常識である。
ルソーの民主主義は「国民主権」というキャッチフレーズになって、フランス革命の精神となった。
国民主権は、共産主義の文脈からいえば、人民独裁である。
人民も国民も、個人ではなく、人民や国民全員をさしている。
これほど嘘っ八のことばもないもので、国民も主権も、実体がどこにもないのである。
他者と異なる身体と精神、個性や人格、名前や個人史をもつ個人をひっくるめて、国民と呼ぶのは、桜や梅、椿を植物≠ニ総称するようなもので、こんなデタラメなことばづかいはゆるされない。
もう一つデタラメなのは、主権ということばである。
主権は、絶対的な権利で、原語は、君主権(ソブリンティ)である。のちに国家に冠せられるようになったが、ソブリンティはなにものも侵されることがない最高権力で、交戦権さえゆるされている。
国民主権は、国民が、その絶対主権をもっているというデタラメな話で、ルソーという男は、虚言に虚言をかさねる希代のイカサマ師というほかない。
近代自由主義の旗手たるバーリンがルソーの「一般意志」を「人類の思想のなかでもっとも邪悪でおそろしい敵の一つ」と評したのもむべなるかなである。
●「議会主義と現代の大衆民主主義と対立」
ルソーの国民主権は、直接民主主義のことで、民が、直接、政権を掌握する体制だという。
直接民主主義が代議員を選出しないのは、投票者=個人が不在だからである。
個人がいないので、普通選挙法も議会も、成り立たないのである。
民主主義では、集合名詞の民≠ヘいるが、普通名詞の個人≠ヘいない。
にもかかわらず、国民主権がうまれるのは、国民意志の一般化という作用がはたらくからで、その主権をあずかって、独裁がうまれる。
なぜ、ひとり一人、自由に生き、人格や個性が異なる個人が、全体のなかに消えてしまったのか?
そもそも、人民が一つなら、ひとり一人の人権や人格、自由はどこへいってしまったのか?
ルソーの『社会契約論』によると「国家には、私有財産をふくめて、人々を分裂させる党派や宗教、思想、個人的な差異まど存在してはならない」(「議会主義と現代の大衆民主主義と対立」/シュミット)という。
これが自由主義の欠落、全体主義でなくてなんなのかとシュミットは憤る。
あまりにアホらしいので、ルソー主義は、ルソー主義を下敷きにしたマルクス主義とともに捨て去られた。
ルソー主義を大事にしているのは、世界広しといえども、中国と日本のマスコミ、法曹界、野党ら左翼だけである。
●根本原理が異なる自由主義と民主主義
欧米がおもんじているのは、民主ではなく自由(リバティ)である。
リバティとフリーダムでは、同じ自由でも、意味合いが異なる。
リバティは、たたかいとった自由で、積極的自由と呼ばれる。
一方、フリーダムは自然発生的な自由で、消極的自由である。
自由主義は、個人のちがいと個人の自由を原理としている。
民主主義は、治者と被治者が同一の原理にもとづいている。
主権をもつとされる国民が、その主権を為政者にあずけるので、治者と被治者が同一となるのである。
そこからうまれたのがフランス革命のロベスピエールの独裁だった。
フランス革命で実権を握ったロベスピエールは、俗に「ルソーの血塗られた手」と呼ばれる。国民の「一般意志」をあずかった正統なる権力者を自称したロベスピエールが独裁をおこない、恐怖政治によって反対者を大量に処刑したからである。
民主主義や国民主権は、かくも、ごまかしと詭弁にみちた危険な代物だったわけだが、マスコミや法曹界ら左翼陣営は、いまなお、民主主義をまもれとこぶしをふりあげている。