●ロシアや中国にないのは自由主義
昨年、90歳になったゴルバチョフが、書面インタビューにこう応えた。
「ロシアがめざす未来は、ひとつしかない。それが民主主義です」
民主主義は、中国が自画自賛して、北朝鮮でさえ国名(朝鮮民主主義人民共和国)に謳っている。ソ連解体(1991年)後のロシアも、ペレストロイカ(立て直し)とともに民主主義の看板を大きく掲げた。
だが、現実は、プーチンが、メドヴェージェフを傀儡にした4年間を挟んで20年以上、大統領に君臨する独裁体制がつづいてきた。
ロシアでは、過激派と認定されると、指導者や関係者が長期間、被選挙権を失う法案がとおって、選挙の候補者が激減したばかりか、一説によると、選挙権を奪われた国民も数百万人にたっしているという。
自由陣営で、民主主義といえば、多数決の原理と参政権のことをいう。
参政権(普通選挙法)には、投票の自由とともに立候補の自由もふくまれる。
選挙の自由は自由民主主義≠ナあって、ルソーの民主主義ではない。
ルソーの民主主義は、直接民主主義で、選挙も議会も必要とされない。
なにしろ、国民すべてを収容できる議事堂がないので、独裁者が国民主権をあずかるというのが、ルソーの民主主義=国民主権の言い分なのである。
ルソーの民主主義は、ひとり一人の個≠ナはなく、民衆という全体≠主とする思想で、それを為政者があずかって、独裁政治をおこなう。
ルソーが英国の選挙を「選挙民が自由なのは選挙中だけで、選挙が終わると奴隷になる(『人間不平等起源論/代議士または代表者について』)とけなしているように、ルソーは、普通選挙法や議会制度をみとめていない。
個人を、一般意志のもとに、国民という分割不可能な一つの共同体に括ってしまうので、選挙も議会もあったものではないのである。
ちなみに、選挙や議会は、個人を重んじる自由主義の産物で、多数決という民主主義は、ただの方法論にすぎない。
●「日本国民の総意」というルソー主義
日本国憲法(第一条)に「天皇の地位は主権の存する日本国民の総意にある」とある。
だが、国民は、ひとり一人、異なった人権や人格、自由をもち、その自由のなかには、表現や投票の自由もふくまれる。
それが、なぜ国民の総意≠ニ一緒くたになるのか。
ルソーによると、正しいのは、個人(特殊意志)ではなく、公の利益をもとめる全体(一般意志)だけである。特殊意志から個性を殺ぎ落とすと「相違の総和」としての「一般意志」が残る(『社会契約論』/第二篇第三章)というのが一般意志の要諦である。
空おそろしい思想である。そのルソー主義が、日本国憲法第一条の天皇条項で、ぬけぬけと、のべられている。
バーリン(『自由論』)によると、投票も議会も、個人の自由に属する。
その個人の自由が、一般意志という邪悪なもの(バーリン)に侵されて、ロシアや中国という全体主義国家がつくりあげられた。
ロシアになかったのは、民主主義ではなく、自由主義だったのである。
ゴルバチョフにして、そのことに気がついていないのである。
必要なのは、個人を単位とする自由主義であって、個人の自由を奪って国民主権にひっくるめてしまう民主主義ではなかった。
個人としての民が主(あるじ)になる民主主義など存在しないのである。
●国家の上に共産党がある中国の民主主義
バイデン米大統領が主催した民主主義サミットにぶつけるかたちで公表した中国政府の白書(「中国の民主」)にこうある。「良い民主とは社会の共通規範をまもって、社会の分裂や衝突を避けるものでなくてはならない」
そして、中国の民主が、西側の民主主義よりすぐれていると自画自賛する。
共産主義と民主主義は、全体主義と地続きで、ロシアも中国も、民主主義をもっていても、自由主義と個人主義をもっていない。
中国の民主は、中国共産党の指導下にあって、共産主義のテーゼの下にある人民独裁には、個人の自由どころか、個の存在さえみとめられていない。
中国では、共産党が立候補者を選別して、共産党や国家に従順な国民でなければ出馬がゆるされない。
昨年(2021年)の香港立法会選挙では、立候補者は愛国者であるかどうかのチェックをうけて、市民60%が支持をえて、40%の議席をもっていた民主派の候補が資格を失って、民主派の当選者はゼロ、議会は、親中派一色となった。
20%台という投票率の低さと無効票率の高さは、市民の怒りのあらわれというべきだが、中国当局は、選挙結果に大満足で、民主主義の勝利を高らかに宣言した。
民の上に国家が、国家の上に共産党がある三段重ねの体制は、個を圧殺した上に成立した権力機構で、計画経済ならぬ計画国家である。
計画経済が破綻したのは、人間の心は、合理では測れないからだった。
計画国家も、ほころびが見えるのは、イデオロギーで人間の心を縛ることができないからである。まして、14億の人民をひっくるめて「国家の主人」というのは、唯物論という妄想以外のなにものでもない。
●「唯物論」「一般化」という革命思想
唯物論は、生産や消費、貨幣という物的なものに目をむけることで、これが革命理論になったのは、そこから「階級闘争」がはじまったという唯物史観に立つからである。
だが、世界をうごかしているのは、物質という唯物論ではなく、文化という唯心論である。
天皇は、唯心的な文化、幕府(政府)が唯物的な権力である。
この二元論は、文化としての自由主義と制度としての民主主義におきかえることができるが、そのテーマについては、後述しよう。
いずれにしても、革命が忌みきらわれるは、自由が抹殺されるからである。
ルソーの一般化(一般意志)とマルクスの唯物論が二大革命理論≠ニいわれるのは、両者とも、人間をモノ(物質)としか見ないからである。
個人(特殊意志)は、個性を殺ぎ落とされて国民(一般意志)となる。
この国民は、一つの総意(憲法第一条)しかもちえないモノとしての国民である。
異議を唱えると国民ではなくなる。これを真似たのが階級闘争で、すべての労働者は、企業や主人に仕える誠実な勤労者ではなく、団結して資本家に牙をむく労働者である。
このとき、国民や労働者は、人格をもった自由な個人から、モノにすぎない集団や階級となる。
一般意志が、歴史上、たびたび、独裁者に利用されてきたのは、国民主権の名目で、魔王的な権力をふるえるからだった。国民から託された、国民のもとめに応じたという口実で、なんでもできてしまう一方、これに抗弁することがゆるされない。
ルソーの直接民主主義には、選挙も議会もないからである。
反抗すれば、国民の名の下で、ギロチン台へ送られてしまう。
フランス革命を指導したジャコバン派の首領、ロベスピエールは「ルソーの血塗られた手」と呼ばれた。ルソーの狂信者だったロベスピエールはみずから「一般意志」の受託者を名乗って独裁体制(恐怖政治)を敷き、わずか数か月で3万人余の反対者をギロチン台に送ったからである。
スターリン「大粛清」の犠牲者数は、フルシチョフの調査(1962年)もゴルバチョフの再調査(1988年)も200万人前後だが、ソルジェニーツィン(『収容所群島』)は、数千万人が犠牲になったと書き残している。
国民の命を虫けらのようにあつかうのが唯物論と一般化理論なのである。
次回は、ルソー主義にのめりこんでいった戦後日本人のすがたに迫ろう。