●敵対関係にある「民主主義」と「自由主義」
バイデン大統領がロシア軍のウクライナ侵攻と防衛戦を「民主主義と独裁の戦い」と位置づけた上で、独裁者に侵略の代償を払わせると宣言した。
連想されるのが、昨年のゴルバチョフのインタビューである。30年前、15の共和国で構成されたソ連の解体を宣言した最初にして最後の大統領だったゴルバチョフは、インタビューにこう応えた。「ロシアの将来をひらくみちは民主主義しかない」
バイデンもゴルバチョフも、反独裁という意味で、民主主義ということばをもちいたと思われる。だが、中国も堂々と民主主義を名乗って、鈴木宗男も北方領土の2島返還にからめて「ロシアも民主主義国家」と発言したことがある。
民主主義は、国民主権の権力者への委託なので、選挙という民主的手続きをふめば、ファシズムも共産党の一党独裁も民主主義になる。
げんにルソーの民主主義は、古代ローマの「民会」をモデルにした直接民主主義で「国民すべてを収容する議事堂は存在しない」として、議会や選挙すらも否定している。
私有財産制を諸悪の根源とするルソーの『社会契約論』は、マルクスの『共産党宣言』と並ぶ共産主義思想の入門書で、ルソーを偉人扱いしているのは、世界広しといえども、日本の教職員組合(日教組)や法曹界、マルクス系論壇や文壇、左翼マスコミなどの偏向グループだけである。
●制度≠フ民主主義と文化≠フ自由主義
欧米や中ロが、口を揃えて、民主主義を謳っているのは、民主主義が制度だからで、多数決の原理も、国民主権も、全体主義にくくられた政治の一部にほかならない。
政治からかぎりなく遠いのが、唯心論の個人主義や自由主義で、それが文化である。
「個と全体の矛盾」が永遠に解消できないのと同様、唯心論と唯物論、文化と政治、自由主義と民主主義、個人主義と全体主義も、互いに否定しあう。
原理が異なるので、一元論では、衝突してしまうのである。
したがって、二元論をとって、衝突を回避しなければならない。
日本は、古来、神話や自然神の多元論の国で、一神教=一元論とは無縁だった。
信仰も、荒魂(あらみたま)と和魂(にぎみたま)の二元論で、それが日本人の昔からの考え方、価値観だった。
その二元論が、権威と権力、天皇と幕府、国体と政体、文化と文明などへとすそ野を広げて、日本という国柄ができあがった。
日本では、浮世絵や錦絵、琴や三味線、和歌や文芸など、西洋では貴族だけのものだった文化が、庶民のあいだに広がった。
その文化性をつちかったのが、歴史や伝統を重く見る保守思想で、それが、唯物論の政体にたいする唯心論の国体である。
政体が、非文化の唯物論というのは、政治は、物理的な力を行使するからである。
国体が唯心論なのは、個人主義や自由主義、保守思想などは、個人の心情に根ざした文化だからである。
したがって、バイデンもゴルバチョフも、民主主義の本質を理解していなかったといわざるをえない。
独裁や全体主義とたたかっているのは、同じ穴のムジナの民主主義ではなく、自由主義や保守思想、保守思想だったからである。
●伝統的な「国体」と近代的な「政体」
日本が、伝統国家にして、同時に、先進的な国家システムをもっているのは、国家が、伝統的な国体と近代的な政体の二元構造≠ノなっているからである。
葦津珍彦は著作(『日本の君主制』)でGHQにこう問うた。
諸君は「天皇はヒトであって神(ゴッド)ではない」という啓蒙運動をはじめた。無知軽薄な日本人は追従したが、大方の日本人は諸君のプロパガンダを冷笑したのみである。日本人は、はじめから、裕仁命を生理的人間と知っていたからである。問題は、天皇という民族の伝統的な地位が神聖であるという思想にある。大御心(天皇の意志)が神聖なものであるという日本人の思想にある。大御心というのは、裕仁命の後天的思慮や教養から生じてくる意思ではない。天皇の地位が世襲的なものである以上、天皇の意思も世襲的なものでなければならない。それはアメリカ人が解している裕仁命個人の意思よりもはるかに高い所にある。それは、わかりやすくいえば、日本民族の一般意思とでもいうべきものである
それは万世不易の民族の一般意思である。日本人は、この民族の一般意思を神聖不可侵と信じているのである。
ここでいう一般意思という表現を、わたしはルッソーの社会契約論から借りてきた。
イギリスにもアメリカにも国家の一般意思があるはずである。日本人は、超歴史的な民族の一般意思、大御心を篤く尊重する。ここに、皇祖皇宗の遺訓たる大御心を、神意と解し、天皇を現津御神と申し上げる根源があるのである。
葦津が引用したルソーの『社会契約論』のなかには「一般意思」ということばのほかに「特殊意思」と「全体意思」ということばがある。
▼一般意思=集団に共通する意思。国民主権や民主主義。法や制度。唯物論
▼特殊意思=個人それぞれがもっている意思。個人主義や自由主義。唯心論
▼全体意思=特殊意志の総和。世論や多数決(選挙)をとおして一般意思へ
葦津のことばを補足すれば、皇祖皇宗の大御心が一般意思で、今上天皇の御心は、特殊意思である。天皇は、歴史上の存在なので、現津御神であらせられるが、一般参賀で、皇居宮殿のベランダにお立ちになるのは、国家の象徴たる存在なので、天皇陛下とお呼びするのである。
●「国家主権」というルソーのインチキ論法
自然状態において、個人の利害は対立する。この対立関係を国家が調停するとしたのがホッブズの『社会契約説』だった。個人は身勝手なので、国家をつくって法で規制しなければ「万人による万人の戦争がおきる」というのである。
これにたいして、ルソーは「人間は生まれながらにして自由だったが、至る所で鉄鎖に繋がれている」「自然は人間を善良、自由、幸福なものとしてつくったが、社会が人間を堕落させ、奴隷とし、悲惨にした」「自然に帰れ」とホッブズの国家論をひっくり返した。
そして、一般意思(=民主主義)を立てて、特殊意思(=自由主義/個人主義)を排除したしたのである。
バーリン(『自由論』)はルソーの一般意思を「歴史上もっとも邪悪な思想」といったが、シュミット(『友・敵理論』)も「国民主権(治者と被治者が同一)という名目で国民から自由を奪った」とルソーの民主主義を頭から否定した。
民主主義は、個人たる国民を国民全体へ一般化して、個人を消した上に成立する全体主義といえる。
一方、選挙や議会、思想や言論の自由は、民主主義ではなく、体系が異なる個人主義と自由主義である。
したがって、自由民主主義は、唯心論の個人の自由と、唯物論の民主主義が合体した二元論で、それが、現在、考えうる最善の国家形態なのである。
●二元論に収斂された民主主義と自由主義
バーリンは、自由を「消極的自由」と「積極的自由」に分けて、制限なき自由(リバタリアニズム)から区別した。
天皇の肖像画を燃やして踏みつけるなどの内容が不穏当として国民から批判をうけた愛知県の「表現の不自由展」について、主宰者の大村秀章知事は「表現の自由は民主主義の根幹」とのべたが、表現の自由と民主主義はなんの関係もない。
「表現の不自由展」はただのリバタリアニズムでバーリンの自由≠ゥら逸脱したファシズム思想である。
根本原理が異なる民主主義と、自由主義を峻別して考えなければ、近代政治を理解することはできない。
民主主義(国民主権)を批判したシュミットは、民主主義を排除すべしといったわけではない。
民主主義の多数決と国家が国民の主権をあずかる国民主権は、得がたい政治手法だからである。
かといって、民主主義と自由主義を組み合わせるべしといったのでもない。
無理にむすびつけるのではなく、切離して考えるべきといっただけである。
シュミットもバーリンも、民主主義と自由主義をどう組み合わせるべきか、妙案をもっていなかった。
ところが、日本は「権威と権力」「国体と政体」などの二元論を同時にはたらかせる歴史をもっている。
自由主義が、国体という文化の領域に、そして一方、民主主義は、政体という権力の領域に該当する。
日本は、自由主義と民主主義を二元論化することによって、二つの西洋思想を国風化できるのである。
それが「天皇と日本の民主主義」の要諦で、民主主義バンザイではなく、バーリン流の節度ある自由とバランスをとることによって、日本の国風にあった「自由民主主義」ができあがるのである。