●日本人が忘れている都市大空襲と硫黄島玉砕
ロシアのウクライナ侵攻について「ロシアに譲歩して市民の犠牲を最小限にすべき」とのべるマスコミ人、有名人が少なくない。
橋下徹やテレビ朝日の玉川徹、テリー伊藤、ロシア・リーグでプレーしていたサッカーの本田圭佑らである。テリー伊藤などは「イノチがいちばん大事と思うんです、ね、ね、そーでしょ、みなさん」と軽口を叩く調子である。
だが、当のウクライナやバルト三国などの隣接国、ウクライナ支援に136億ドル(1兆6千億円)の緊急予算を組んだアメリカや防空システム『スカイセイバー』をポーランドに配備したイギリスらNATO、ウクライナへの武器輸出にふみきったEUから、そんなふやけた声は聞こえてこない。
ロシアに主権を奪われた国がどんな運命をたどったか、フィンランドやリトアニア、ハンガリーの歴史をみればわかるが、チェチェンやクリミアでは住民の大虐殺がおこなわれ、現在、ウクライナでその悪夢が再現されている。
フィンランドとスウェーデンがNATOに参加できないのは、ロシアがゆるさないからで、英米が軍事的に無力だったら、フィンランドとスウェーデンが第二のウクライナ、否、第4、第5のチェチェンになっていたかもしれなかった。
鈴木宗男は、ロシアのウクライナ侵略に「ウクライナ側にも手落ちがあった」とのべた。鈴木は、北方2島返還にからめて「ロシアにも民主主義がある」とも発言した前歴もある。
共産党時代のソ連とはちがうといいたかったのであれば、現在のプーチン体制はそれ以下である。
●KGBと新財閥、武闘派がプーチン三大人脈
プーチンのとりまきは、KGB人脈と大財閥、私兵集団をもつ武闘派の三つに分けられるが、合わせても50人にもならない。
だが、このとりまきを使って集めた私財が12兆ルーブル(17兆円)にものぼって、住んでいる「プーチン宮殿」には、1000億ルーブル(1400億円)の巨費が投じられた。
国防関係をになっているのがKGB人脈である。ショイグ国防相やパトルシェフ安保会議書記、ナルイシキン対外情報局長官、ボルトニコフ連邦保安局長官ら国防関係者らは、KGB時代の同僚や部下で、プーチンに盾つく者は一人もいない。
財閥は、ロシア資本主義化の過程でうまれた新興財閥(オリガルヒ)にくわえ、献金と利権のバーターで育成した新財閥の合体で、アメリカの資産の半分が数十人の大金持ちに握られているように、ロシアの富と利権もかれらに独占されている。
三つ目の武闘集団にあたるのが、チェチェン共和国の独裁者カディロフ首長らプーチンを崇拝する有力者で、クリミア半島やウクライナ東部のドネツクとルガンスクの二州をおさえる親ロシア派武装勢力のリーダーらも、プーチンの子分である。
ソ連時代は、腐敗していたとはいえ、ソ連共産党というイデオロギー的規範のもとにあって、一応、理想を掲げていた。だが、現在のロシアは、プーチンというギャングの親玉が牛耳る暗黒街のようなもので、50人余のとりまきが軍部と政治機構、経済を一手に掌握して、プーチン親分に忠誠を誓っている。
ロシア通の鈴木宗男やロシア圧勝を期待する佐藤優らは、この事情を知っていながらプーチンにテコ入れしているのだから、プーチンファミリーの一員というほかない。
●連合国からチェチェン以下の扱いをうけた日本
かつて、日本は「ABCD(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)包囲網」と呼ばれた経済封鎖(石油禁輸など)に苦しみ、インドネシアのパレンバン油田からわが国に石油を輸送するオイルロードをまもるべく、ハワイの海軍基地に奇襲攻撃をかけた。
日米戦争はこうしてはじまったが、アメリカは、徹底した民間人殺戮に勝機をもとめた。その結果、日本全国の都市が米軍機(B29)の空爆によって焦土と化して、民間人の死者が41万人におよんだ。
原爆投下による広島(14万人以上)と長崎(7万人以上)だけで、死者が20万人をこえる。そして、東京大空襲で10万人、その他の都市で10万人が犠牲になった。
悲劇はそれだけでは終わらなかった。戦勝4か国(米英中ソ)による4分割統治である。4分割は、アメリカが関東、信越、東海、北陸、近畿を、イギリスが中国と九州を、ソ連が北海道と東北地方を、中華民国が四国を領有するというもので、東京は四か国共同占領で話し合いがついた。
もっとも、占領には組織的抵抗が予想されるため、占領開始時はアメリカが23個師団(85万)を投入して全土を一年間で掌握してのち、3か月後から各国軍に占領させるというとりきめだった。
●なぜ連合国は日本に条件つき″~伏をもとめたか
だが、この約束を破ったのが、広島へ原爆が投下された直後、参戦してきたソ連だった。ソ連は、ポツダム会議には参加しているが、戦争当事国ではなかったため、ポツダム宣言にはくわわっていない。
だが、スターリンは、この時点ではすでに死んでいたルーズベルトと密約を交わしていた。対日参戦した段階で、ソ連に満州と千島列島(北方四島以北)をゆずりわたすというものだった。この謀略を察知したイギリスは、当時、世界各国に「わが国はクリミア会談(ヤルタ密約)に関与していない」という緊急公電を打っている。
1956年には、アイゼンハワー政権が「ヤルタ協定はルーズベルト個人の密約であり、米政府の公式文書でなく無効」とする国務省声明を発表、ソ連の領土占有に法的根拠がないとの立場を鮮明にした。
ルーズベルトの後任、トルーマンは「連合国軍が日本領土内に諸地点≠占領する」とあるポツダム宣言7条に国名を挙げなかったことから、戦勝4か国(米英中ソ)の分割統治とアメリカ軍による一年間の支配を撤回して、マッカーサーにその旨をつたえた。「ポツダム宣言にそって、帝王にようにふるまいたまえ」
ポツダム宣言は、13条から成る条件つきの降伏布告(ディクラレイション)で、第5条に「これは条項(条件)である」とはっきり明記している。
無条件降伏という文字があるのは13条で「われわれは日本政府に日本軍隊の無条件降伏≠フ宣言を要求する」とある一個所だけである。日本が無条件降伏したのなら、連合国軍が、どうして、日本政府に要求をつきつけることができたろう。
●チェチェン以上に徹底抗戦した旧日本軍
「日本はアメリカに無条件降伏した」と枉げてつたわったのは、吉田茂の国会答弁(昭和24年11月26日/衆議院予算委員会)および最高裁判所の判断(昭和28年4月8日/最高裁判所大法廷大法廷)にもとづく。
吉田は「日本国は無条件降伏をしたのである」とのべ、最高裁判決にはこうある。「わが国はポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印して、連合国に対して無条件降伏をした」
これに左翼は「降伏条件を無条件に受諾して降伏したので無条件降伏だ」と屁理屈をつけて、日本に革命がおきた「八月革命(宮沢俊義)」といって騒いだ。
だが、トルーマンもマッカーサーも、無条件降伏とは思っていない。
したがって、降伏13条をまもって、天皇を裁判にもかけなかった。
トルーマンはおそれていた。サイパン島、硫黄島、沖縄で日本軍は死をおそれぬ戦いで米軍に大損害をあたえた。本土決戦になれば、兵力ばかりか航空機や戦車、大砲などの数が圧倒的優位にあった日本に勝てるはずはなかった。
ポツダム宣言が国体護持という条件つき降伏≠ニなったのは、日本にたいする譲歩であった。
日本を破滅から救ったのは、日本人の不屈の敢闘精神だったのである。
千島列島のソ連軍は、日本軍に圧倒(占守島の戦い)されて、中国大陸では、日本が負けている戦線は一つもなかった。
アメリカやソ連、中国には天皇の命令≠ノよって、日本軍を武装解除する以外、戦争を終わらせる手段をもっていなかったのである。
原爆を落とされてなお、日本人は、民間人の殺戮に狂奔するアメリカと戦おうとしていた。
チェチェンの人々は、日本人から国をまもる勇敢さを学んで、ロシアに立ちむかったのである。
「イノチがいちばん大事と思うんです、そーでしょ、みなさん」というようなふぬけたやからは一人もいなかった。
次回以降、日本人がいかに国家をまもってきたか、これから、どうまもってゆくべきかについてのべよう。