2022年07月17日

 民主主義とテロリズム@

 ●テロリズムにぜい弱なのが民主主義の最大の欠陥
 安倍晋三元首相が銃撃されて死亡するという大事件がおきて日本中が悲しみにつつまれた。
 葬儀の沿道には大勢の人々が詰めかけて、哀悼の悲痛な声をふり絞る光景がテレビ中継されて、多くの日本人が涙した。
 トランプ大統領から「二度とあらわれないすぐれた指導者を惜しむ」という悼辞が届き、岸田文雄首相は、吉田茂につぐ戦後二番目の国葬を正式に決定した。
 政党の党首や財界人らも哀悼のコメントを発表した。
 異様だったのは、テロへの怒りと並べて、全員がハンでついたように「民主主義の根幹をゆるがす蛮行」「民主主義への挑戦」と民主主義を金科玉条のようにもちあげたことである。
 小沢一郎などは哀悼の意も表さずに「長期政権のツケがまわった。民主主義をまもるために政権交代をめざす」と言い放った。

 ●元総理の銃撃事件をゆるした危機管理能力の低劣さ
 テロが民主主義をおびやかすのではなく、民主主義だからテロがおこりうるという、単純なことが日本人にはわからない。
 中国やロシア、北朝鮮で、テロがおきないのは、収容所国家で、予防拘束ができるからで、民主主義ほどテロにたいして無防備で、危機管理がむずかしい体制はない。
 今回の銃撃事件で、世界各国が指摘したのが警備の甘さで、演説中の安倍元首相の背後はがら空きだった。
 銃撃犯の発砲および現場からの逃走の様子が、一部始終、アマチュアのスマホに撮られるというだらしなさで、奈良県警や公安関係者、警備関係者の一部は休憩中だったともつたえられる。
平和ボケ日本≠ネらではの光景で、日本人は、安全や防衛を、水か空気のように思っている。
 尖閣諸島危機から、中国・ロシア艦隊の日本沿岸縦走作戦および領空・領海侵犯や北朝鮮の日本近海へのミサイル発射にたいしても、危機感ゼロで、日本人は、民主主義と平和主義、憲法9条の下で、戦争などおきるはずはないとタカをくくっているのである。

 ●「民主主義と国民主権」対「自由主義と個人主義」
 民主主義には2つの意味があって、1つは、多数決である。
 ソクラテスやプラトンの時代から多数決という数の論理が大手をふっていた。
 クラテスに死刑判決を下したのが、その多数決で、その衆愚政治を批判したプラトンが「哲人政治」を唱えたのは有名な話である。
 歴史上、民主主義は、衆愚政治の代名詞だったのである。
 2つ目が国民主権(主権在民)で、これはルソーが唱えた。
 国民主権は、王権(ソブリンティ)に対比されるもので、国民主権をあずかった者が、君主に代わって、主権をもつことができるとした。
 この場合、国民は、国民一人ひとりではなく、統治される階層という意味である。
 個人の意志(特殊意志)ではなく、全体の意志(一般意志)を、為政者が丸ごとあずかって、独裁的な政治をおこなう。
 個人が、国民全体に一般化されるので、これは「一般化理論」とも呼ばれる。
 そもそも、ルソーは、自由主義や個人主義に否定的で、議会主義をみとめていない。「国民全員を収容する議事堂は存在しないので、為政者が国民の主権をあずかる」というのが人民政府で、これは、共産主義のことである。

 ●戦後マルキストがつくりだした民主主義ブーム
 戦後、日本で民主主義ブームがおきたのは、GHQの公職追放でマスコミや大学教員らがそっくりマルクス主義者にいれかわったためで、民主主義や国民主権は、共産主義の代名詞だった。
 ところが、日本は、天皇の国なので、民主主義を人民独裁におきかえることはできなかった。
 共産党が勢いをえた時代もあったが、大方の日本人はアカ(共産主義)≠きらった。
 そこで、マスコミや学者や文化人ら左翼は、民主主義の大宣伝に打って出た。
 アメリカもフランスも、ソ連(ロシア)も中国も、革命国家で、フランスはルソー、アメリカは革命権を謳うロック、ソ連や中国はマルクスが国家のバックボーンである。 
 戦後、全体主義に抵抗したのが、ヒトラーに酷い目にあわされたイギリスとフランスだった。
 イギリスは保守主義(議会主義)を、フランスは、自由主義(個人主義)を立てて、共産主義や民主主義と一線を画した。
 これが「個と全体」のバランスで、国民と個人の区別、多数決と少数意見の尊重、自由にたいする制限、個人にたいする責任を、社会的規範(モラル)としたのである。

 ●自由と好き勝手≠フ区別がつかない日本人
 日本人は個人の自由≠ニいうとなんでもありの好き放題(リバタリアニズム)を思いうかべる。
 だが、自由主義や個人主義には、制限と責任という付帯事項があって、社会秩序は「自由の制限」と「個人の責任」によってまもられている。
 日本人は、この2つの付帯事項の欠落に、気がついていない。
 日本では、なにをやるのも個人の自由≠ェ善とされるが、欧米では、悪である。
 その悪の代表がテロリズムで、欧米ほどテロに苦しんでいる国はない。
 名古屋の「表現の不自由展(2019年あいちトリエンナーレ)」では、天皇の写真を燃やして、踏みつけて、それを表現の自由とした。
 このイベントに、国が補助金を出したほか、愛知県大村秀章知事ら賛同者が少なくなかった。
 これが、マスコミの「表現の自由」の原点で、表現の自由を奪われることへの抵抗ではなく、モラルをまもろうとしている人々にたいするテロ攻撃である。
 表現の自由には、被害者がでるので、おのずと、制限がかけられる。
 ところが、日本では、その制限にたいして、逆制限をかける。
 2019年の参院選で、安倍首相(当時)の演説を妨害した男女が会場から排除されたが、この男女がおこした裁判で、広瀬孝裁判長(札幌地裁)は、表現の自由を侵したとして、北海道警察に慰謝料の支払いを命じた。
 日本は、司法までが、悪の代表であるテロリズムの味方なのである。

 ●マスコミの言いたい放題≠ヘ言論テロ
 歯止めのきかないテロリズムに支配されているのがマスコミである。
 銃撃されて安倍元総理の血にまみれた姿がNHKを中心にくり返しテレビでオンエアされて、視聴者から悲鳴があがった。
 マスコミは、紙を売り、テレビの前に視聴者を釘付けにすることだけが目的の商売人で、商売のためなら、人権や名誉、誇りの侵害を意に介さない。
 気に食わなかったら徹底的な叩くというテロリズムの発想は、現在、日本中に蔓延しているが、元凶はマスコミである。
 とりわけ安倍叩き≠ノ狂奔した夕刊紙やスポーツ紙は、連日、テロを煽るような過激な見出しを掲げつづけている。
 このテロリズムがマスコミの本性で「やりたい放題をやってなにがわるいのか」という現代の日本人の気質を助長してきた。

 ●「国民の知る権利」の国民はだれのことか
 責任と義務は、国防問題にも深くかかわっている。
 安倍元総理が、憲法に自衛隊合憲を謳おうとしたのは、国をまもる自衛隊を税金ドロボー≠ニののしる日本人が少なくないからである。
 自由主義には制限、個人主義には義務と責任がついてまわるが、日本の民主主義は無制限で、いっさい縛りがかからない。
 日本は「主権在民」の国で、国民には主権があるので、なにをやってよいと思いこんでいるのである。
 だが、一人ひとりの国民に主権などない。
 国民主権をいうなら個人(特殊)が国民(一般)の代表である証明が必要である。
 マスコミは「国民の知る権利」という。その国民はだれか。そのなかに知る権利をふりまわすことに反対する人々はふくまれないのか。
 マスコミは、商行為の手段である。そのマスコミが売らんかなの精神で、虚栄や嫉妬、不満や怒り、不安や恐怖を煽って、言論の自由を喧伝する。
 そして、惨事がおきると特ダネ≠ニしてセンセーショナルに報じて国民の知る権利を主張する。
 民主主義は、暴力テロにも言論テロにも、まったく、無防備だったのである。
posted by office YM at 23:16| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする