●「人間主義」と「国家主義」へと二分された日本
「個と全体」の矛盾は、古今東西、長年にわたって問われつづけてきた永遠の難問である。
中世ヨーロッパでは、これが、啓蒙主義とキリスト教のあらそいという形で噴出した。
啓蒙主義が人間(=個)のめざめなら、キリスト教は国家(=全体)の根幹をなすもので、この二つの異質なるものが衝突しておきたのが宗教革命や政治革命だった。
革命によって、神権神授説の神が唯物論や合理主義、科学におきかえられて近代的思想や文化文明、共和思想(社会主義・共産主義)がうまれたといってよい。
3つ目の革命が産業革命で、近代の欧米世界は、宗教と政治、経済の3つの革命をへて完成したのだった。
国連常任理事国の米・英・仏・ロ・中は、いずれも革命国家で、革命国家が採用したのが、民主主義と個人主義、合理主義と唯物論だった。
だが、民主主義や合理主義、唯物論は「個と全体」を調整する機能をもっているわけではなかった。
それどころか、神権神授説の代替えなので、ごりごりの一元論である。
「個と全体」の矛盾を革命という一元論で解消できるわけはなかった。
そもそも、革命は一元論である。「個と全体」の矛盾を解消できるのは、あいまいさをゆるす多元論や唯心論、その両者の要素をかねそなえている自由主義でなければならなかった。
西洋で、個人も大事だが、国家も大事というバランス感覚がはたらいているのは、民主主義と並んで、自由主義が尊重されているからである。
自由主義というのは、日本の「和の精神」のようなもので、個人主義と国家主義、民主主義と伝統主義のバランスをとろうとする。
ホッブズの「国家主権論」とルソーの「国民主権論」の中間にあるのがミル(ジョン・スチュアート・ミル)の「自由論」で、ヨーロッパが共産主義化をまぬがれたのは、ミルの自由主義が根を張っていたからだったのである。
●なぜ日本では「自由主義」が不毛なのか
個人と国家の関係を語る最大の哲学がホッブズの社会契約説で「自然状態においては万人の万人による戦争がおこる」という警告は、国家の有用性を語ることばとして知らないヒトはいない。
これにたいして、ホッブズの百年以上あとにうまれたルソーは「国家は人間の自由を奪った」として国家無用論=人民統治論を説いた。
この人民統治論がフランス革命にとりいれられ、マルクスは、ルソー主義を共産党宣言にリライトして、これが、ロシア革命にむすびついた。
日本には、マルクス主義やルソー主義者は、履いて捨てるほどいるが、保守主義のホッブズを語る者は少なく、ミルの自由主義にいたっては語る者がほとんど皆無である。
日本人が、世界でもっとも重要な思想家であるミルを無視するのは、ミルの『自由論』が書かれたのが、明治維新の十年前だったからで、自由主義という考え方は、当時、西洋ですら新しい思潮だった。
中江兆民は「民約論(社会契約論)」を約して、日本のルソーと呼ばれたものだが、日本にミルがあらわれなかったのは、明治維新に間に合わなかったからで、明治維新のヨーロッパ化をひきずっている日本の西洋主義者は、いまなお自由主義を知らないのである。
戦後、ルソーの延長線上にあるマルクス学者が、洪水のようにあふれだして大学がその牙城となった。
日本学術会議らの各種学会、学術団体をみればわかるように、自由主義という柔軟な心を失ったイデオロジストだったからである。
ちなみに、日本の法曹界(司法・弁護士連合会)が左翼的なのは、法が西洋からの輸入品で、国体や「和の精神」などの日本精神と対立するからである。
ミルの自由は、国家の有用性と個人の可能性を両立させるため国家と個人の自由を制限するというもので、その聡明さにおいて聖徳太子の「十七条の憲法」との類似点がすくなくない。
世界は『社会契約説』のホッブズと『自由論』のミルをいまなお重要視しているが、ルソーやマルクスは見向きもされていない。
いまなおルソーとマルクスを奉っている日本の左翼が思想界の化石≠ニ呼ばれるゆえんである。
●国家と国民を分裂させた明治維新の過ち
かつて、日本が、世界一の国民文化をもっていたのは、民と権力のあいだに天皇という権威が介在したからで、権力から干渉をうけなかった民力はおおいに栄えた。
天皇は、民の代表にして、権力の正統性を裏づける存在で、権力は、天皇のゆるしがなければ民を統治することができなかった。
日本で庶民文化がはなひらいたのは、天皇が権力から民をまもっていたからだったのである。
部屋に絵や書、生け花を飾る文化や百姓でも字が読める民度の高さ、宣教師が驚いた町の美しさや工芸や技術の高さは西洋以上で、ヨーロッパ人は日本の浮世絵や木造建築、刀剣の高度なレベルに最後まで追いつくことができなかった。
庶民文化が衰退したのは、高税と徴兵制、軍国主義が国民を圧迫しはじめた明治時代からで、幕末以降、日本に新たな庶民文化はうまれなかった。
日本が、国家主義と、人間(民権)主義に分裂したのも、明治維新からだった。明治維新が、国体を捨てた西洋の模倣だったからで、西洋の二面性(国家と国民)を見抜くことができなかった薩長政府は、列強の国家主義=帝国主義的な側面だけを真似して富国強兵を国家スローガンにした。
日本は、いくつも大戦争ができたのは、税金の50〜90%が軍事費にむけられたばかりか、軍費の多くを外債に依存したからで、おかげで、国家財政は破産寸前だった。
元禄振袖に代表される江戸文化の華麗さはすがたを消して、モンペにかすりという質素な衣服をまとった国民は「欲しがりません勝つまでは」という軍国スローガンを唱えさせられた。
当時、東京の街は、町内のゴミ箱にハエがたかる不潔さで、美しかった江戸時代の面影はなかったが、軍国主義一色の国家が国民生活に目をむけることはなかった。
これが、国家と国民の極端なアンバランスで、明治の富国強兵は、国家だけがあって国民が不在の時代だったのである。
だが、第二次大戦後、その反動がきて、こんどは、個人をおもんじて国家を軽視する偏向がトレンドになった。
国家主義を憎悪して、国民主義に憧れるという極端から極端への思想的ジャンプがおこなわれたのである。
それが反日左翼・反国家主義で、かれらは、二言目には、国民や生命などと口にするが、それが、戦前の天皇ファシズムの裏返しということに気がついていない。
国家に尽くした政治家の国葬の黙祷をジャマするため、数千人ものデモ隊が笛や太鼓を打ち鳴らすという蛮行は、個人主義や自由主義ではなく、死者への冒瀆という、人間性とモラル崩壊以外のなにものでもなかった。
だが、反日左翼は、哀れにも、そんなことにすら気がつかなかったのである。