●巨星墜つ≠フ感が深い森田実氏の訃報
政治評論家の森田実氏が亡くなられた。お会いするたびに笑顔で話しかけてこられた穏やかなお人柄で、講演にもなんどか足を運ばせてもらった。
小泉改革反対の急先鋒で、とりわけ、2005年の郵政解散には違憲論までもちだして異を唱えられた。参院で法案が否決された以上、憲法41条の精神に立って廃案にすべきで、7条を濫用して国会を解散させるのは、越権にして違憲、首相の権限を越えていると演壇で熱弁をふるわれた。
郵政選挙で自民党は296議席を獲得して大勝したが、当選者の多くはテレビでもてはやされた「小泉チルドレン」で、古参の自民党議員は涙を呑んだ。このときも、森田氏は、議論を捨てて、多数決にたのむのは民主主義ではないと断言して、衆愚論の口火を切った。
小沢一郎が、当時の細川護煕首相と自民党の河野洋平総裁のあいだに立って実現させた小選挙区制についても、森田氏は、多元的価値観と奥行きをもった自民党の持ち味を台なしにすると警告を発しつづけた。
まったく同感で、森田氏からは学ぶところがすくなくなかった。
保守論客として名指しで推薦していただいたこともあったが、自民党のリベラル派や宏池会に近く、公明党とも太いパイプをもつ平和主義者だった森田氏と天皇・国体論のわたしでは、あとでのべるように、根本的な部分で相違点が小さくなかった。
森田氏は、日本共産党の東大細胞の大ボスで、6全協(1955年)の武闘路線放棄の3年後、共産党員を殴って除名されたのち、島成郎(国立精神神経医療研究センター医師)を書記長に立てて全学連を結成、森田実氏は委員長をつとめた。
全学連委員長選挙で革共同に負けると、島は、北海道へ行って唐牛健太郎を説得、香山健一(元学習院大学教授)に次いで唐牛が委員長になって全学連はそのまま60年安保に突入する。
●激動の60年安保とマボロシだった全学連
そのときの全学連副委員長が西部邁氏だった。当時、全学連と対決していた民族系学生運動の活動家だったわたしは、20年ほど前、酒席で、西部氏からフィクサーとして知られていた西山幸喜氏の紹介をたのまれて一席設けた。
中曽根康弘批判などで意気投合しているように見えたが、のちに、中曽根元首相が西部氏の出版記念パーティの主催者になっていることに西山氏が不快感をいだき、仲立ちしたわたしと西部氏とのあいだにも距離間がうまれた。
森田氏と西部氏は、島成郎から香山健一、唐牛健太郎へとつづくブント全学連の師弟関係で、唐牛の面倒を見た田中清玄と同様、転向者だった。香山健一は保守の名著といわれる「日本の自殺(文春新書)」を著し、1990年には、天皇陛下御即位奉祝中央式典で祝辞(学界代表)を読んでいる。
唐牛健太郎はガンで亡くなる(1984年/享年47歳)まで徳洲会病院の徳田虎雄や日本精工の今里広記の支援をうけて、事業に情熱を傾けた。生きていれば大実業家になっていたかもしれなかった。
日本における右翼と左翼は、マルクス主義をめぐる経済論争で、封建制度や絶対主義の打破などの切実な政治目的にもとづくものではなかった。
多くの学生運動家が転向したのは、かれらの闘争が虐げられた人民の苦しみからうまれたものではなかったからで、かれらは、マルクスやルソー、毛沢東などの理論や合理的思考、イデオロギーに、一時期、心酔しただけだった。
社会に、一歩、出てみれば、世界や現実、人間は、不合理や不条理、矛盾にみちた不純なもので、学生時代に夢みた唯物論的にして一元論的な真実はどこにもなかった。
歴史や文化、国家や習俗などは、唯心論的な多元論で、合理主義では説明がつかないものが釣り合いをとりながら存在している。そのあいまいさが中庸の精神で、聖徳太子の十七条の憲法にも「和をもって貴し、さか(忤)うることなしを宗とせよ」とある。
さかうるというのは、異質なものがいがみ合うことで、たとえ、異質なものでも、互いに尊重しあって、いがみあってはならないと太子はいったのである。
●「国家」と「国民」を融合させる二元論
個と全体、主観と客観、中心と周辺、意識と直観、体験と知識などの矛盾は永久に解消できない。
聖徳太子は、この矛盾を二元論や多元論で解決しようとした。
神道は国家、仏教は個人、儒教は道徳と分けるのが多元論で、聖徳太子が一神教や一元論を立てていたら、日本は、西洋のように宗教戦争がおきて国家が分裂していたかもしれない。
日本という国が、世界で唯一、革命がおきなかった伝統国家たりえているのも「朝廷と幕府」「政体と国体」「権力と権威」という二元論に立っていたからで、大久保利通は、憲法の制定にあたって、君民共治を唱えている。
天皇を中心とした立憲政治は、君主政治でも民主政治でもなく、君民共治という日本古来の政治形態にあると大久保はみたのである。
森田氏も西部氏も、熱烈な反米主義だが、アメリカが孤立主義を選択して、日本から引き揚げたとき、日本は、じぶんの国をどうまもるかという明確な展望を掲げたことはなかった。
西部氏は、核保持をいうが、核の「相互確証破壊」は観念論で、核の使用も全面戦争もありえない。ありうるなら核シェルターの使用法以外、いっさいの防衛理論が不要となる。
なぜなら、世界が滅びつつあるなかで、戦争と平和について語っても、なんの意味がないからである。
国家防衛は、現実的には、地域が限定された制海権と制空権に依存している。
極東アジアは、アメリカ軍と中国軍、韓国軍と台湾軍、自衛隊とロシア軍の軍事バランスの上に立っていて、日本がアメリカを日本列島から追いだせば、前回、のべたように、南シナ海が中国の要塞と化したフィリピンの失敗の二の舞になる。
森田氏や西部氏、そして、わたしたち保守主義者も、これまで、国家と国民の二元論を問題にしてきた。
森田氏の平和主義は、国民に重きをおいて、国家が希薄だった。
西部氏の保守主義は、大衆蔑視で、国体や国家が見えなかった。
国体は、歴史や文化、権威の体系で、大元に天皇がいる。
政体は、国益や軍備、権力の体系で、国家の根本である。
近代の国家主権は、民の代表たる天皇を中心とした日本伝統の国家観だったのである。
森田氏や西部氏と十分に天皇論を語ることがなかったことがいまも心残りなのである。