2023年03月20日

「自由主義」と「民主主義」の相克と調和9

 ●国家よりも民主主義を愛する日本の政治家
 政治家の絶対条件が愛国者であることは万国共通の大原則であろう。
 例外が日本で、政治家になった理由のダントツの第一位が民主主義をまもるためという。
 その象徴が「世界価値観調査(2021年)」の無惨なアンケート結果である。
 世界数十カ国の大学・研究機関の研究グループがおこなった「戦争がおきたら国のために戦うか」というアンケートで、日本は世界79カ国中、ダントツ最下位(79位/13%)で、旧ソ連の属国だった78位のリトアニア(33%)に20ポイントの大差をつけられる大醜態であった。
 地球上に、戦争がおきても国をまもらない国が1か国あったわけで、それが日本だった。調査にあたった調査機関や大学は驚愕したが、それ以上に、世界に呆れられたのが、ウクライナ・ロシア戦争における橋本徹の発言だった。
 橋下徹は、ウクライナ4000万人の国民は、母国を捨てて、難民になって世界を漂流した10年後、平和になったウクライナに帰ってくればいいというのだが、そのとき、ウクライナは全土がロシア化して、ウクライナ人が入れる余地は小路一本すら残っていない。
 逃げてドブネズミのような扱いをうけるくらいなら誇りをもったまま祖国をまもって死ぬというウクライナ人の精神を、橋下徹や大方の日本人は想像することすらできない。
 テレビで橋下は、死ぬのですよ、死んだら終わりですよと絶叫した。生命と民主主義、そして、憲法がいちばん大事という日教組教育とマスコミの洗脳に魂を抜かれた現代日本人のすがたがこれで、橋下は、日本の言論界ではヒーローかもしれないが、世界レベルからみたら幼稚園児かただの腰抜けである。

 ●領土と国家の誇り、民族の魂をまもるために戦って死ぬ
 日本はかつて軍国主義で、国民は、軍部の横暴に苦しめられたという。
 だが、日本人は、日露戦争の勝利や真珠湾攻撃、マレー半島の攻略を祝って提灯病列をおこなった。英米の兵糧攻めに打ち勝つために死に物狂いになって戦って、230万人もの戦死者をだし、原爆を投下されながらまだたたかおうとした。
 林房雄はこういった。「国民をふくめて、日本全体が軍国主義で、当時、軍国主義以外の正義はなかった」
 前大戦の戦死者がドイツ280万人、旧ソ連にいたってはその5倍の1450万人にもたっするが、兵士はダマされて死んだわけではない。国をまもろうとして、みずから戦い、死んでいった。
 領土を奪われて、国家の誇り、民族の魂を汚されるくらいなら戦って死ぬというのが戦争の論理で、平和や反戦、生命の尊さは、国家の安全がまもられているかぎりにおいてのみ通用する俗言である。
 戦後の日本は、民主主義のアメリカに戦争で負けて、よい国へうまれかわりましたというプロパガンダを思想的バックボーンとしてきた。音頭をとったのが左翼と日教組、インテリと官僚、マスコミらで、渡部昇一は、かれらを敗戦利得者≠ニ呼んだ。
 戦争に負けて、戦勝国の威を借りてのしあがってきた勢力だからで、戦後日本は、すっぽりかれらの手に落ちた。
 アメリカ民主主義や憲法、共産主義や個人主義は、日本の文化にはなかったものだが、それでは、日本は、アメリカやロシア、中国のコピーなのであろうか。
 とんでもない。戦争がおきたら、国民こぞって国を捨てようなどという国は、日本以外、どこにも存在しない。

 ●人間原理の政治を否定する法治主義とイデオロギー
 法治(ほうち)国家は、独裁国家や警察国家、あるいは、法整備が整備されていない野蛮な国家の対義語だが、それだけではない。
 法治主義は、歴史や伝統、文化や道徳、善や常識を法の下位に置く法匪(ほうひ)思想でもあって、法の上っ面の解釈に固執して、人間原理に立つ政治を否定してかかる悪徳の一つでもあって、中国では、法律知識を悪用する悪漢という意味がある。
 橋下徹から副島瑞穂らは弁護士だが、日本弁護士連合会(日弁連)が反日の牙城となっているのは、マルクス主義も法理主義も、人間性や常識、善や徳という唯心論と敵対する唯物論で、悪魔のイデオロギーだからである。
 イデオロギーとは、思想を根底的に規定する観念のしめつけで、根底にあるのがルソーやマルクスらの特異な価値観である。
 ルソーが自然に帰れなら、マルクスは他人のものはオレのもの、法理主義は法をまもるためなら国が滅びてもよいという唯物論で、いずれも、人間の心がかよっていない。
 民主主義は、ソクラテスの紀元前から多数決のことだが、ルソーが国民主権にきりかえた。国民に国家の権利があるわけはないが、そこがイデオロギーのイデオロギーたるゆえんで、ルソー信者はこれを盲信してやまない。
 日本では、国家は国民の主権を奪ったというルソー主義、資本家は労働者の富を奪ったとするマルクス主義、政治は法の下位にあるべしという法理主義の嵐がいまだ吹き荒れているのである。

 ●民主主義やイデオロギーは、権力闘争の道具にすぎない
 戦後、日本人が失ったものは、人間の心で、それが端的にあらわれているのがイデオロギーにもとづく党派思想である。
 いったん、イデオロギーに思考をあずけてしまえば、あとはイデオロギーがすべてきめてくれる。大量殺人のオウム真理教のマインドコントロールも連合赤軍の総括や内ゲバも、イデオロギーの暴走で、日本共産党や創価学会、日弁連や日本学術会議も、みずからの頭脳で考えて行動しているのではない。
 党派性の魔術に憑りつかれて正気をうしなっているのである。
 それが、神か崇高な思想か、ルソーかマルクスかは知らないが、思考能力を失っていることはたしかで、だいたい、日弁連が、従軍慰安婦問題で、こぞって国家に謝罪をもとめるなどとということがまっとうな精神でできるはずはない。
 弁護士も心があれば、万人、一様ではないはずだが、イデオロギーがはたらくと日弁連という統一見解でそれができてしまう。
 二つの大戦でおびただしい戦死者がでたが、スターリンと毛沢東、ポルポトの粛清や自己批判、虐殺だけで、それをはるかにこえる死者数がでている。
 なぜ、そんなひどいことになってしまったのか。
 イデオロギーによる党派主義は、血も涙もない権力闘争である以上に大量虐殺の思想だったからである。

 ●制限された自由主義の上に構築される新時代の国家観
 民主主義も国民主権も、イデオロギーで、権力闘争の一形態である。
 ちなみに、国民主権は、二つの意味合いで矛盾している。
 一つは、国民が、軍隊という万能的権能をもつ国家主権をもてるはずはない。
 もう一つは、個人はいても、国民はどこにも存在しないことである。
 国民主権は、実現が不可能なので、個人と国家は、永遠にたたかわなければならない。
 それが、暗殺されたスターリンの政敵、トロツキーが唱えた永久革命論だった。
 狡猾なルソーは、実現が不可能な国民主権が、永遠の革命をくり返す悪魔の思想であることを知っていたのである。
 イギリスはフランス革命の国民主権や民主主義をきらった。
 イギリスがえらんだのは、エドマンド・バーク(『フランス革命の省察』)の自由主義だった。
 バークは、人間は自由であるべきだといったのではない。
 その逆で、真の自由は、制限された自由こそにあるといったのである。
「すべての害悪のなかで最悪なものは、智恵と美徳を欠いた自由である」
 バークが「保守思想の父」と呼ばれるのは、じつにこの一言によってである。
 日本ではなにをやろうとオレの勝手という完全自由主義(リバタリアニズム)がもてはやされ、どんな被害が生じてもかまわないという言論の自由が大手をふっている。
 日本の知識人やマスコミは、世界から見れば幼稚園児にひとしい。
 その精神の幼さを象徴しているのが、国をまもる日本人が13%にすぎなかった先のアンケートの愛国心の決定的な欠落なのである。
posted by office YM at 04:41| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする