2023年05月01日

 グローバルサウスと大東亜共栄思想1

 ●日本右翼の原点は大アジア主義
 日本の右翼の原点が「アジア主義」にあったことに政治学者ですら気づいていないようだ。
 右翼の語義についても錯誤がある。フランス革命期の国民公会で、議長席の左側を急進派(ジャコバン派)が占めたのにたいして右側を穏健派(ジロンド派)が占めたところに由来があるなどというのだが、日本やアジアの黎明期の政治とフランス革命とはなんのかかわりもない。
 右翼は「右にでるものがいない」という謂いにあるとおり上位や正当という意味で、左翼(革命急進派)に対立する右翼(反動的守旧派)と理解するのは語義上の誤りである。
 右翼は反共の砦という者もいる。だが、反共の呼称は、戦後の革命の危機に任侠までも動員した防共体制の名残で、1919年のコミンテルン(国際共産主義運動)の誕生や1922年の日本共産党(コミンテルン日本支部)の結党まで、日本には、反共という概念は存在しなかった。
 右翼の根幹精神に西郷隆盛をおく右翼人が多い。葦津珍彦はこうのべた。
「岩倉(具視)や大久保(利通)、伊藤(博文)ら政府実権者は、日本の富強をはかるには、欧米列強への抵抗(攘夷)の精神を捨て、欧米の支援の下で国の発展を期さねばならぬと信ずるに至った。これにたいして、日本精神の権威を確保して、欧米の圧力に抵抗しつつ、日本国の強化をはからねばならぬとする西郷以下の勢力が対決した」
 1877年の「西南の役」など士族の乱は、徹底的に鎮圧されて、明治日本は、西洋的な帝国主義に変容して、それが、1945年の大戦終戦まで68年間のながきにわたって継続される。
 その象徴が天皇主権を謳った明治憲法と徴兵令で、明治維新によって武士と天皇の国(権威と権力の二元論)としての日本の国体は、完全に瓦解したといえる。

 ●アジア主義という理念に立った日本の右翼
 武士の精神が消えた近代日本で、日本の右翼がもとめたのは、修好と開国をすすめる遣韓使節としてみずから朝鮮におもむこうという西郷隆盛の征韓論であった。
 これがアジア主義の原点となったが、アジア主義へ最初の一歩をふみだしたのは、皮肉にも、征韓論で西郷と敵対した大久保利通だった。清国の李鴻章から「東洋の団結」をもちかけられた大久保は、米沢藩士の曽根俊虎に命じて「振亜会」を発足させ、みずから会則を起草する。
 振亜会(1878年)は興亜会(1880年)へ、さらに亜細亜協会や東亜同文会(1900年)と名称を変えるが、日本と支那、朝鮮の親和性を深めていこうとする李鴻章の精神は、日清戦争(1894年)まで維持された。
 これがアジア主義に立った日本の右翼の萌芽で、運動の主導権をにぎったのは、国家という枠組みをこえた振亜会の流れをくむ有志団体であった。
 国家は、国益のためのみにうごくので、民間の活動はふりかえられない。
 ヨーロッパの25か国が参戦した第一次世界大戦で、戦闘員および民間人の犠牲者約3700万人にもたっしたのは、国家は、敵対国の殲滅という一元論的な行動原理しかもちえないからである。
 李鴻章は、日清講和条約をむすんだ清国全権で、日清講和条約では、清国が朝鮮の独立を承認したほか、日本に遼東半島と台湾・澎湖列島の割譲を約している。
 開戦に反対だった李鴻章が日清開戦に踏み切らざるをえなかったのは、西太后周辺の積極派に押し切られたからで、個人の意志が国家理性に敗北するのが歴史のつねなのである。
 日本で、アジア主義という政治観を打ち立てることができたのは、主導権をにぎったのが、国家ではなく、右翼という個人の思想や価値観か反映された有志団体だったからだった。
 有志団体なら、国家の利害関係をこえた人類の理想にたちむかってゆける。
 右翼が、国家や民族の独立やアジア同胞の連帯という大運動に挺身できたのは、国家という枠組みに縛られない自由人だったからで、頭山満や内田良平は民族独立や国家防衛には身をたぎらせたが帝国主義戦争には大反対だった。

 ●アジア独立の工作機関だった黒龍会
 日本の右翼の先陣を切ったのが頭山満や平岡浩太郎らの玄洋社で、興亜会が発足した翌1881年、アジア主義の政治団体として、黒田藩内に設立された。
 西南の役などの士族の反乱で死にそびれた武士たちが大挙して玄洋社にくわわったのは、秋月の乱をおこした秋月藩が黒田藩の支藩だったからで、黒田藩出身の頭山満にも尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった無念があった。
 西南の役で、西郷とともに最後までたたかった平岡浩太郎は、黒龍会の内田良平の叔父で、良平の父、内田良五郎は玄洋社の幹部だった。
 ちなみに、日露戦争中、レーニン工作などロシア国内の政情不安を工作して日本の勝利に貢献した明石元二郎も玄洋社の社員だった。明石の功績について陸軍参謀本部の長岡外史は「陸軍10個師団に相当する」と評したが、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も「明石元二郎一人で満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げた」と称えた。
 明石の偉業の背景にあったのが、黒龍会の内田良平が決行したロシア偵察のシベリア横断(1897年)だった。
 南洋植民や中国貿易からアジア主義へと発展した東邦協会(1891年)や犬養毅や平岡浩太郎、三宅雪嶺らが発起した東亜会(1897年)の後をうけて、4年後、玄洋社の海外工作を担当する内田良平の黒龍会(1901年)が設立されている。
 玄洋社のスローガンに「大アジア主義」があるが、アジア全土で独立と解放の運動をおこなうには、国外で工作を担う専門部隊が必要だった。
 それが内田良平の黒龍会で、良平は、フィリピン独立の指導者アギナルドや中国革命の孫文、インドの独立のラス・ビハリ・ボース、朝鮮開明派の金玉均や朴泳孝を援助したほか、日韓問題については、一進会の領袖李容九とともに日韓の対等合邦をめざして、日本政府にはたらきかけた。

 ●西郷隆盛の大東亜論と勝海舟の東亜同盟論
 孫文の辛亥革命は、1911年に成立するが、中華民国の実権を奪ったのは孫文ではなく、袁世凱だった。袁が死ぬと分裂をくり返す北洋軍閥と毛沢東の革命派、蒋介石の国民軍による内戦がはじまって中国全土は群雄割拠の戦乱の時代に突入する。
 日本が孫文の後継者とした汪兆銘の南京政府も全土掌握にはいたらず日本の敗戦後、解体されて、南京政府関係者の多くが反逆罪で処刑されている。
 当時の右翼は、国政や軍事、官僚から一線を画した有志の団体で、頭山満の玄洋社は、満州義軍(馬賊)を編成、ロシア軍の後方をかく乱するゲリラ戦を展開、天佑侠を編成して、東学党を援けた黒龍会の内田良平も朝鮮やインド、フィリピンの独立運動に尽力したが、日本政府の手先になることはなかった。
 盟友の犬養毅から大臣の椅子を約束されても政界入りを断った頭山満は、関東軍のよる満州建国や日韓併合とりわけ日華事変に大反対だった。大アジア主義に立っていたからで、当時、右翼人の思想や行動力をささえていたのは、西郷隆盛や叛乱士族らからうけつだ武士の精神であった。
 玄洋社の三憲則に、皇室を敬戴すべし(第一条)、本国を愛重すべし(第二条)、人民の権利を固守すべし(第三条)とあるが、国政に尽くせとはない。
 西郷や叛乱氏族の精神うけつぐ右翼にとって、ヨーロッパの模倣に走る明治政府は、理想からほど遠いもので、右翼が維新の根幹とみなしたのは、西郷隆盛の大東亜論であった。
 西郷の大東亜論は、日本と中国、朝鮮が同盟を結んで西洋列強の東洋進出に対抗すべきとした勝海舟の東亜同盟論と同根で、江戸無血開城をもちだすまでもなく、西郷と勝は肝胆相照らす仲だった。

 ●右翼の公的使命感と大東亜共栄思想
 大東亜共栄思想は、西郷の大東亜論や勝海舟の東亜同盟論の上に成り立ったもので、東条内閣の大東亜会議(1943年)は、日本の国策や軍略というより、アジア全土にみなぎっていた植民地解放と独立への地響きのような渇望の声であった。
 戦後、左翼は、大東亜会議は、後づけで、日本の目的は帝国主義的な侵略にあったと主張するが、あたりまえである。日本が他国を独立させるために戦争するわけはなく、目的は、地下資源の入手と欧米列強の駆逐であったのはいうまでもない。
 にもかかわらず、歴史学者のアーノルド・トインビーは英紙『オブザーバー(1956年)』にこう書いた。
「日本は、第二次世界大戦において、大東亜共栄圏の他の国々に思いがけない恵みをもたらした。それまでアジア・アフリカを200年のながきにわたって支配してきた西洋人は、無敵で、あたかも神のような存在だと信じられてきたが、日本人は、実際にはそうではなかったことを、アジア人の面前で証明してみせた。これは、歴史的な偉業であった。日本は白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、植民地主義、人類差別に終止符を打つ偉業をなしとげたのである」
 日清と日露戦争、太平洋戦争における日本兵の勇猛果敢さ、とりわけ玉砕や特攻など死を覚悟した闘争精神は世界を驚愕させた。
 その思想的深淵はなんであったあろうか。
 国家や国体、国民やアジア同胞をまもろうとする公的な使命感てあった。
 私を捨て、公に一身を捧げるますらお(益荒男)の防人精神で、日本男子は、私情を捨て去ったもののふ(武士)だったのである。
 やさしさや親切、おもてなしなどの日本人の社会的善が世界から賞賛をうけているが、これも、私をおさえた公(おおやけ)の心である。
 次回以降、日本人の公の心と西洋の私の精神を比較しながら、世界の歴史をみていこう。
posted by office YM at 09:44| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする