●家族国家の日本と敵・味方″痩ニ群の西洋
日本人はヨーロッパの「ジェノサイド(民族集団殺戮)」の歴史を知らない。
自民党副総裁の麻生太郎は「日本は、一つの国、一つの民族、一つの王朝が2000年にわたってつづいてきた国」(2005年)とのべたが、天皇を中心とする家族国家で、民族の集団殺戮などおきるはずもなく、そんな観念すらもなかった。
麻生発言に猛然に嚙みついたのが朝日新聞とその周辺の左翼学者で「日本は単一民族の国家ではない」というのである。
アイヌも在日も、帰化人も外国人もいるというのだが、厳密な意味での単一民族国家は世界のどこにも存在しない。同一民族の割合が人口の85%以上を占めていれば単一民族国家で、日本のほか、中国や韓国、北朝鮮、台湾、アルバニア、ポーランド、チェコ、ポルトガルなども単一民族国家である。
反日左翼は、日本という国の独自性までも否定しようとする。
「かつて日本は、中国の属国で、明治維新で西洋化に走ったが、戦後、憲法を新たな国体とするアメリカの属国になった。将来は、天皇を廃して、共産主義国家になる」というのである。
国際政治学者のハンチントン教授が「日本は、世界7大文明の一つで、中華文明の亜流ではない」(『文明の衝突』1996年)としたが、これにも、反日左翼学者が猛反発して「ハンチントンは二流学者」「中韓日は中華文明圏にふくまれる」と主張した。
ハンチントンの日本文明論は、日本の歴史が一万5千年前の縄文時代(世界4大文明は5000年前)からつづいてきたこと、独自の文化や文明をもっていること、中国大陸の2倍の海岸線をもつ海洋国家で、国土を他国に侵されたことがないこと、統一された単一の中央政府によって統治されてきた主権国家だったことなどをあげたが、これらの主張にたいして、他国から異議が唱えられたことはない。
●敵の殲滅≠最大の教義とする一神教の恐怖
日本にジェノサイトがなかった理由に、宗教観と歴史的習俗、自然環境など西洋との3つのちがいを挙げることができる。
筆頭が宗教観のちがいで、ヨーロッパで芽生えた一神教(ユダヤ教やキリスト教、イスラム教)は、神と悪魔がたたかう宗教で、教義の基本に悪魔退治がおかれる。
悪魔を倒すのが、一神教の神髄で、イスラム教のマホメット(ムハンマド)は、偶像(悪魔)征伐の戦争神だった。
ユダヤ教やキリスト教もその精神を引きついでいるので、宗教戦争は、凄惨きわまりないものになった。7回にわたった十字軍の遠征(1096〜1270年)では、略奪や破壊、皆殺しが横行、コルテスの「アステカ王国」征服やピサロの「インカ帝国」制圧でも、古代遺跡の破壊や略奪、民族の集団殺戮がくりひろげられた。
ジェノサイドの根拠は「キリスト教の恩恵に浴さない者は動物以下」という宗教的迷妄で、大航海時代のポルトガル人やスペイン人は、動物を殺すように見開国の罪なき老若男女を殺しまくった。
宗教戦争も激烈で、カトリックとプロテスタントが対立したドイツの「30年戦争では、ヨーロッパ20か国が参戦して、市街地や農村が主戦場となったドイツの人口は、戦前の3分の2にまで激減した(死者400万人)。
魔女狩り(異端審問)による女性の犠牲者は、ヨーロッパ全体で100万人以上になったが、見物者らは、火刑の犠牲者の泣き声や悲鳴を悪魔の断末魔の叫びとして聞いたという。
それがジェノサイドの原型で、敵対者や異教徒、放浪者、無国籍人の皆殺しは、ヨーロッパ一神教における神の行為だったのである。
「鉄砲と十字架」を手にした白人は、アフリカの奴隷狩りで数千万人の黒人を拉致して、アメリカ新大陸で1000万人のインディアンを殺戮した。そして、南アジアを侵略して200年間掠奪をつづけ、抵抗した日本に2発の原爆を投下した。
記者団から原爆投下を決断した経緯を聞かれたトルーマンは、指をパチンと鳴らしただけだったが、食糧を強奪して1000万人のウクライナ人を餓死させた(「モロドモール」)の命令書にサインしたスターリンは顔色一つかえなかったという。
ウクライナが、ロシア侵略に死の者狂いで抵抗するのは、90年前に人口の4分の1を餓死させられた仕打ちを忘れていないからである。
●スメルナ港のアルメニア人虐殺を救った日本の東慶丸
民族虐殺で忘れてならないのは、オスマン帝国の少数民族だったアルメニア人が、強制移住、虐殺などによって死亡した「アルメニア人虐殺(アルメニア人ジェノサイド)」で、犠牲者は100万から150万人にのぼる。
アルメニア人虐殺事件で引き合いにだされるのが、日本の商船がトルコ軍に追われたアルメニア難民800人を救出した「東慶丸事件」である。
第1次大戦後の1922年9月。ギリシャと交戦中のトルコ軍が港町スミルナ(現イズミル)に迫ると戦火に追われたアルメニア人が岸壁に殺到した。
このとき、アルメニア人らを保護したのが、スミルナに寄港していた日本の商船東慶丸だった。日本人船長は、追ってきたトルコ兵にたいして、難民に手を出せば日本への侮辱とみなすと告げ、積み荷を捨て、難民全員を上船させたという。
このとき、スミルナ港には、イギリスやフランス、イタリアなどヨーロッパ列強の船舶も多く停船していたが、難民を救出した船舶は、東慶丸以外、一隻もなかった。
東慶丸がアルメニア人を救ったのは、日本では、戦争に民をまきこむことが悪だったからで、戦火に追われた民を救うのは、日本人にとってあたりまえのことだった。
日本のいくさは、古来、農閑期におこなわれた。農作業のジャマにならないようにするためで、権力闘争である戦争と民の生命をささえる農業とのあいだには、一線が画されていて、戦争によって、作物や民の生命が犠牲になることは、道義上、あってはならないことだった。
●奴隷制度や人身売買、動物の屠殺を禁じた天皇令
日本の城下町には、敵の侵入を防ぐ城砦がない。いくさに民をまきこむ発想がなかったからで、たとえいくさでも、武士が無抵抗の民を殺せば末代の恥になった。
一方、西洋の城下は、市街地を城砦でとりかこみ、敵が侵入しにくい構造になっている。西洋の戦争は皆殺しなので、戦争になると兵士とともに民も犠牲になった。したがって、城下を丸ごと城砦で囲って、敵の侵入を防がなければならなかったのである。
奴隷の原型は、敗戦国の国の民を売買した奴隷市場で、これが15世紀からのアフリカ人を対象にした大西洋奴隷貿易へと発展した。
日本に奴隷制度がなかったのは、戦争で負けた側の民を殺害あるいは奴隷として売るという制度がなかったからで、徳川家康は、三河の一向一揆で、敵将だった本多正信を殺すどころか、戦後、重臣にとりたてて、終身、側近として仕えさせた。
反日左翼には、日本にも奴隷制度があったと主張する者がいるが、飢饉などによる人身売買はあったものの、制度としての奴隷制度はなかった。
ポルトガル人による日本人の人身売買が豊臣秀吉の怒りを買って、バテレン追放令につながった話はよく知られるが、わが国では、古来、奴隷制度や人身売買は、肉食と屠殺と同様、天皇(天武や聖武など)令として、国禁だった。
●職業区分だった「士農工商(穢多非人)」
身分制度とされる「士農工商(穢多非人)」は、実際は、中世以前からの職業区分で、当時の法規(『公事方御定書(町奉行所)』をみても、身分上の差別は存在しなかった。
穢多は、死んだ牛馬を解体して武具などに使う皮革類を生産する「斃牛馬取得権(旦那株)」のことで、この特権をめぐる訴状も残っていていることからも穢多が職業区別だったとわかる。
非人も前科者のことで、墓掘り(隠亡)や死体処理など常人がやらない仕事が前科者が生きてゆける唯一の職業だった。
奴隷という意味の「生口」や「奴婢」も中国側の呼び方(『後漢書』や『魏志倭人伝』)で、中国人が日本からの技能者や留学生を格下にみて「生口」や「奴婢」と呼んだのは「大和国の日巫女」を「邪馬台(ヤマト)国の卑弥呼」と侮蔑語で呼んだのと同様の発想である。
日本の史書に、当然、卑弥呼の蔑称はないが、日本の反日歴史学者は、卑弥呼の邪馬台国が正しく、大和朝廷は、後世のでっち上げだとして、中国の蔑称である倭(チビ)をとって、大和朝廷をヤマト(倭)国にしてしまった。
漁師や狩猟業、皮革業や食肉業が士農工商から外れたのは、日本は、屠殺や肉食が禁令の国だったからだが、穢多や非人は、ながいあいだ差別というイジメの対象にされてきた。
他人を差別するのは、東大神話と同様、昔も今もかわらぬ人間の性癖で、国家に差別的な身分制度が存在していたからではない。
次回以降、日本が人種差別撤廃から大東亜共栄思想に接近していった経緯についてのべていこう。